2016年12月17日土曜日

今日の想い 939

心情主義に立つなら、他に対しては愛の目で見るのであり己に対しては良心の目で見るということだろう。自分の思考感情行動はその動機を良心に問われるのだが、他の思考感情行動に対して動機を見ようとするならそこに自分の善悪基準を当てはめ心情主義ではなくなってしまう。その背後関係がわからず無視していて本当の動機は見えないからだ。自分に対して動機を問う場合は良心判断が作用するが他に対しては良心ではなく自己流ともいえる善悪基準が作用する。み言葉み言葉と言うけれどもみ言葉に啓発されることで自分の良心が立つことが重要で、それを無視してみ言葉の未熟な理解で善悪基準を立てるとするなら、み言葉はみ言葉の本質を外れて裁きの法になってしまう。要するにみ言葉は自分に向かうみ言葉であって相手に当てはめるみ言葉ではないということだ。相手の事情や背後も知らずに相手本人を悪だと決めつけるのであればみ言葉を正しく汲み取ってはいない。原理を知らないこの世の人達であっても神様の心情を見ることがあるのは当然で、逆を言えば原理に精通している食口であってもその歩みに心情という動機が働いていないこともある。摂理だみ旨だと言い訳しながら良心に反している場合だってあるということだ。そんな歩みを続けながら神霊に育まれるべき自分から遠ざかってしまう。誰につくのが正しいかというその判断基準自体が間違っていることに気付けない。自己流の、或いは堕落性の、神の位置に立てない私の善悪基準を当てはめている。ではそんな今の私はというと、実は冷めている。歩むことに、生きることに冷めている。突き動かされる声が、良心から届いていない。或いは私の良心が立っていない。かつて、突き動かされるままに全てを捨てて献身した私は今はいない。摂理だと言われるままに受け売りで歩んでいる私はいるけれども、摂理を本当の摂理たらしめようとする私はいない。40年以上も歩んできながら報告できる何があるのかと、今まで為せなかったものをどうしてこれから為そうといえるのかと、問われるというより裁かれる毎日で意気消沈し、それでも何らかの希望を持たなければ人間として生きられず、それが個人的なもの家庭的なものに留まってしまう。だから今は人にとやかく言える立場ではない。燃え上がる神様への想いを、焦がれるほどに慕い求めた父母様への想いを、情の流れが枯渇したように失せたまま、霊のない抜け殻のままで魂はさまよう。御父様は聖和されても私を訪ねてくださると思っていた。御母様は御父様以上に情をかけてくださり、それに応えようとする私の想いはより強くなると思っていた。ようするに私は未だに親から独り立ちできずに、優しい言葉や慰めの言葉を求めている。真の愛とは強さの一面があるはずだ。どんな仕打ちを受けようとも与え続けようとする愛の強靭さこそを今必要としている。優しい愛や慰めの愛は、愛とは思えないほどの厳しい試練を超えてこそ現れるものだろう。ヨシュアに「強く雄々しくあれ」と度々背中を押した厳しい旧約の神様の側面が今私の意識に蘇ってくる。心情主義に立つには人は強くなければならない。仁王像のような良神が立って自らを制し、義に燃える自分を用意してこそ心情主義に立てる。