世間は御父母様のことを教会員を洗脳した悪魔のように思っている。先輩食口の中にも御父母様を、神の摂理に応えられなかった、言葉と行動が相容れない、御家庭は教条に反するものばかり等々と、悪魔とは言わないまでも随分な言い分でもって、人生の大半を摂理に差し出してきた恨みを吐露している。それは先輩祝福家庭にも多く見られ、教会解散にも敢えて口を挟まず関係がなかったかのように黙っている。一部の二世達がどれほど前に立って闘う意志を見せようとも、我関せずの立場で同調することはない。私にはそうみえる。それは御父母様と教会への不信からそうなのだろうか。であればアボジが8割方が離れていくと言われたその言葉が成就したといえるのだろうか。そういう私自身も教会という組織、教会という形にこだわる期間は、後天時代以降終わっていると思っているので敢えて口は出さない。しかし教会や御父母様への不信から声を出さない訳ではなく、教会摂理は現教会が国の圧力で解散されてもしなくても変革し前進すべきだし、御父母様に対する認識を人間的なものから神霊的なものに上げていく必要があるからだ。私は先天時代の教会と献身して捧げてきた歩みが無駄だったとは思わない。堕落人間に口なし、カラスが白と言われれば白と言われる尋常ではない教会空気の中で、信仰の何たるかを知り、信仰は強度を増し、日本の摂理も世界摂理も進んできたと思っている。アボジが遺言として残された天聖経を始めとするみ言葉は道徳教本ではない。よってそこかしこを切り取って人間的判断でおかしいと言えるようなものではない。訓読しながら言葉の背後の神の心情を訪ねて受け取るみ言葉だ。私達も部分部分を切り取られてMCされたと人間的判断で裁きを受けているが、それも致し方なし、祝福家庭であっても人間だからだ。それに神霊に繋がった私達の霊的本質を一般の人間には理解できない。しかし私達が強く認識すべきことは御父母様によって神霊とも授受できる霊的柱を戴いたことだ。天の血統圏に繋がれたといってもいい。であるにもかかわらず、御父母様や御家庭を道義的に批判はしても人間的判断一辺倒で断罪する食口は、御父母様から受けた祝福を蔑ろにしており天の霊的血統圏から外れていると思っている。
逍遥の旅
五感を超えた世界、霊界を尋ね散歩しながら、思考、感情を通して教えられるものをブログ日記として書き溜めました。
2026年4月14日火曜日
2026年4月12日日曜日
今日の想い 1463
2026年4月2日木曜日
今日の想い 1462
花が咲いて、そして散る。形が為されて、そして壊される。人が生まれて、そして逝く。逝く人を見送る人も、また逝く人。それは千年も万年も無数に繰り返されてきたことであり、今もそして未来永劫繰り返される。かつては生まれて逝くその狭間でそれらの意味を問うても答えはなかった。だから意味を問うこと自体むなしく、意味を問えば問うほどに迷宮に入り込んで心を病む。心を病むのは霊達の孤独と根無し草による不安からくる。私はどうにも悩みすぎて心を病んだことがある。この世には悩む人と悩まない人がいる。悩まない人は今生が天の意識圏外にある者、すなわち終末に至らず悪く言うと霊も素通りする見捨てられたアブク存在に過ぎない。私は心を病むほどに悩んだけれども、奇跡的にも原理に出会い御父母様にまみえて深い絶望的悩みから解放された。私達は歴史の狭間で生きてきた数多の人間達が得られなかった答えを手にしている。そう、人類歴史を通して夥しい生死を繰り返しながら求めても求めても得られなかった、その答えとしての真理を手にしている。二世達にこの霊的歓喜がわかるだろうか。散る意味がわかり、壊される意味がわかり、逝く意味がわかる。そうなると地上を去りたくないというのは生きる欲としての執着でしかない。教会も解散されたのであれば、もはや潔く、新たに願われる摂理に目を向けるべきだろう。この期に及んで更なる解散に対する反旗を翻したところで、私は逆に摂理に反することになりはしないかと危惧する。解散命令がどれほど違法で教会存続がどれほど正しいかを今の時点で叫んでも世間は聞く耳を持たないし、それを訴えたいのであればこれからの私達の行動で認めてもらうしかない。神様は私を捨てないという確信があるなら敢えて教会にしがみ付く必要はない。摂理は次なるステージに展開され、私なのか組織体としての私達であるべきなのかは別途考えるとして新たな摂理に応えていくことに全集中すべきだ。
2026年3月26日木曜日
今日の想い 1461
一世は野宿してでも飲まず食わずでも、そして少々の嘘はったりを嚙ましてでもみ旨に生きる野太さが取り柄といえば取り柄だったはずが、二世への世代交代によって教会食口の在り様はよく言えば灰汁がなくなった、悪く言えば純粋培養で優しい人達だけの集まりになったということだろうか。純粋な教会二世達を見ていると、心優しいその性品を失って欲しくないと思うと同時に、そんなに心優しくてこの藪だらけ、敵だらけの騙し騙されの世間をどうやって生きていくのだろうかと心配になる。彼等は天国では生活できてもこの地獄の地上世界では生きていけない。二世も人それぞれだろうけれども、少なくとも教会に繋がっている二世達がこの状況で変わらないとすればこの世に生を受けるにまだ早すぎたことになる。そうなると彼等を内的霊的に育んだ、純粋な彼等が神様とイメージする神霊は、この解散命令を受けて尚、霊的中心足りうる神霊なのかどうかを自らの良心に問うべきだ。ハナ二ムであって一なる神様を否定するのかと怒鳴られそうだが、はなから誰一人として何らの差異もない全く共通の神様のイメージを持ち合わせている訳ではない。私のイメージする神様とあなたのイメージする神様が異なるのは、同じ原理を学び同じ真の父母に侍る食口であったとしても異なっていて当然だ。二世にとってはこの解散命令で内的霊的羅針盤である良心(良神)に、信仰とは何か、教会とは何か、等々今まで当然のこととしていた観を先ず尋ねて欲しい。そしてその羅針盤で新しい霊的大地に向かい希望を持って、強く雄々しく船出して欲しい。17世紀、英国の宗教弾圧を逃れて新天地に船出した清教徒達のように、、。具体的に日本を離れろと言っている訳ではない。以前記したようにもちろんそれもひとつではあるが、自らの観、それは人生観から始まり信仰観や神観すべての観を立て直すところから始まる。
2026年3月23日月曜日
今日の想い 1460
おかしく思うかもしれないが、一人残った母に新しい仏壇の購入を勧めた。田舎にある祖父が供えた仏壇は色も褪せ艶もなくなり、それでも移った家に移動させようとも思ったが、大きすぎて置き場所がない。無いということもないが部屋も小さくてどこに置くにしても合わない。小さな家には不釣り合いだ。しばらく御本尊だけを座り机を台にして置いてお参りしていたが、父が亡くなったのを機に、少し小さめで床の間に収まるものを迎え入れようと説得し、展示会場に連れて行った。小ぶりなものでも結構値が張る。湯呑入れのような最小のものから襖二枚ほどもあるものまで様々だった。一つ一つ見て回りながら値札を見て驚いてはいたが、「これが良さげだ」と展示会場の隅にある展示物の前で立ち止まった。光沢のない実に質素な箱だけの代物だった。安いのは安いがそれでも20数万の値札が付いていた。母にすればそれが出せる精一杯だったからそれを選んだのだろう。「お金のことは心配せんで気に入ったものにしよう。足りない分は出すから、、。」そう言って艶の或るそれなりの仏壇を見つけて指さした。母の顔色を窺うと気に入ったのはすぐに分かった。値段は倍で少し苦しいが生活費を削ってでも母の喜びには代えられないと思った。母としては見るだけだと思って勧められるままに来たのだろうが、契約を終えて帰る車の中で、「これも縁じゃけえ」と遠い耳に口を寄せて伝えると、母は納得したように嬉しそうにしていた。教会には献身もし、ビジネスでは誰よりも献金してきた。帰るまで親の生活費を援助したこともないし、誕生日には子供騙しのお菓子で済ませていた。ある程度まとまったお金でプレゼントした最初で、更に最後になるかも知れないという買い与えたものが仏壇か、、と複雑な気持ちになった。
2026年3月13日金曜日
今日の想い 1459
またしても頑張れ頑張れか、。何を頑張ればいいんだろう。御母様の言葉ですら頑張れの一言らしい。御母様ご自身は狭い拘置所内でどう頑張っておられるのだろう。自分はどう捉えたらいいのか。皆はどう捉えるのだろうか。かつて胸締め付けられるほどに御父母様に向いていた私の想いは、遠い昔にあったものとだけ記憶していて、当時の熱い想いそのままを胸中に思い描くことすら今は難しくなっている。原理で信仰に至り、その信仰によって相思に至り、その想いが心情に至るはずなのに、アボジの現実、そして御母様の現実や教会の現実が心情へ向かう翼を羽交い絞めしている。そう捉えてはいるが、はたして私の信仰を阻もうとするこの暗雲は本当のところは何なんだろうか。現実が大きく見えるということは一方の霊的事実が現実で遮られていることになる。最近は妙に体調が優れず、熱もないのに悪寒のような感覚が走り、微妙な震えを背中や手の先に覚える。未だ往生できない父のせいにして自分を偽っていたけれども、流石に四十九日法要を済ませてその言い訳は当たらない。今の信仰環境の現実、私の摂理観を見届ける心眼の曇り、それと体調は明らかに作用し影響し合っている。おそらく食口の多くは、御母様の願い、御母様の苦労を想いながら解放を祈願することに集中しているだろう。しかし御父母様の子女として、すなわち肉的な子供ではなく霊的子女としての私達の本分は、神の願いと心情を相続して摂理を担うことにある。食口全体としてその意識が欠けているように思えてならない。勝共の渡辺さんの声を枯らしての訴えを、スクリーン越しに見ながら嬉しくて涙が流れてきた。天宙復帰の神の意志が彼に働いているし、復帰精神の火は消えていないし、神は私達を捨ててもおられないと思った。
2026年3月5日木曜日
今日の想い 1458
今回の結果に至ったのには数えきれないほどの原因があるだろう。しかし根源の一つは、日本という国自体が信教の自由を受け入れない社会であり、民主国家の建前だけ立てて信教の自由という概念すら曖昧にして深入りさせない村社会だということ。日本は国民を愛で主管するのではなく飼い慣らしの国であって、当然自由の概念などもともとない。本来がそういう社会であるから、人々に波を起こすような目立った行動には目敏く、確実に制裁の度合いを増していく。記者会見であろうがインタビューであろうが、また普通の一般人との対話であろうが、彼等の多くは信仰を持つという感覚すら理解できず信仰の胡散臭さで鼻を押さえながら対している。信教者側がどれほど差別感情があるのを彼等に感じるとしても、しかしそれが日本人全般であって、日本の空気感でそう教育されてもいる。高裁は解散しても信教の自由を否定するものではないとしているが、教会食口は今までも、これからは今まで以上に、内外両面で普通の一般的日本人から差別的レッテルを貼られて、想いを声にする自由すら無くなっていくだろう。アボジはここまでの事態になることを予見されていただろうか。御母様はどうだろうか。アボジのみ言葉を改変させてまで権威を立てる必要があったのだろうか。清平の豪奢な建造群は日本食口をここまで追い遣って献金させても必要だったのだろうか。御母様も常に日本の犯した罪の対価を求められたけれども、結局御母様の子女である日本食口に全てのしわ寄せが負わされてしまった。それも当然だと思われているだろうか。一世は自らの意志でこの道を選んだのだから如何なる仕打ちも甘受して当然だとしても、しかし二世は違う。信仰に始まる親の観で育った彼等の居場所は無くなってしまった。それでも未だに教会本部や御母様の彼等にかけられる言葉は見当たらない。