この不安に、耐えて耐えて、耐えて耐えて、ひたすら耐える路程がいつまで続くのだろう。死ぬまで終わることのない耐える道なのか、いや耐える路程の期間があってのち、何らかの新しい展開が始まるのか、一体私という肉体に起こっていることをどう捉えればいいのだろう。私の肉体に起こっていることと、私という存在との因果関係がどうなっているのか。わからないことだらけで尋ねる神霊のことごとくに声が届かず、それどころか顔を背けられ無視されたままでいる。ひたすら縦的に尋ねても答えは得られないと思えば、対処的横的な癒しを求めてしまう私がいる。そんなことで癒され解放されることなどあり得ないとわかっていながら、せめてこの傷口だけでも舐めてほしいと、その感情が傷を負った生き物のように、頑なな魂を揺さぶり続ける。老いて体が朽ちていくことは、この魂すら削られ朽ちていくことなのだろうか。穏やかな老後という期待は、ものの見事に裏切られ崩されてしまった。ひとり、またひとりと知人はこの世を去っていく。彼らは死に際して何を思い、何を祈り、何を死の向こう側に見ていたのだろうか。彼岸に期待をはずませていたのか、それとも生きることの執着を持ったまま連れ去られたのか。私のように昇華とは遠い、不安に苛まされたような不信仰者はいないのだろうか。今日も一日が暮れる。めっきり弱くなった西日の光が差し込んできたので、バルコニーに出て、雲間から差す僅かな温もりに両の手をかざしてみる。かつての、雄々しく堂々としたアボジの姿は、此の頃の私の内面に見届けることはない。私は糸の切れた凧なのか。私の魂は知らないうちに散り散りになるあの雲なのか。天の祝福を受けたあの誇りはいつから内面から去ったのだろう。天に繋がるあの誇りこそが魂を支える杖だったはずだ。また今日も日が落ちて不安な夜がやってくる。眠れない私との闘いがまた始まる。
逍遥の旅
五感を超えた世界、霊界を尋ね散歩しながら、思考、感情を通して教えられるものをブログ日記として書き溜めました。
2026年10月30日金曜日
2026年10月13日火曜日
今日の想い 1498
老いは若さを経験した後に訪れる。若さを経験せずしては老いは経験できない。おそらく、老いた誰もが若かりし頃を懐かしむだろうし、若さを羨むだろう。アボジは青春よ早く過ぎ去れと言われながら、その意味は若さという暴れ馬をなだめるに相当の力を注がれ、欲がほとばしる肉体を主管するのにご苦労されたからだろう。と、勝手に私は思ってはいるが、真意はどうかはわからない。青年期を超えられ壮年期、そして老年期を迎えられたとき、若さや若かりし頃をどう思われただろうか。若さは激しい新陳代謝で維持されている。若い肉体は数年でほとんどの細胞が入れ替わるが、毎日毎日数千億という細胞を死に追い遣って捨てながら、それ以上の細胞が生み出され活性化させている。その生へのエネルギーの投入となると植物や動物の比ではない莫大なエネルギー量だ。しかし老いると、新陳代謝は相当に穏やかになり細胞はより自然の法則に同化していく。植物化していきそして鉱物化していく。遅々とした動きを受け入れずして、そして石化してしまいそうな器官を受け入れずしても自らの肉体への恨みは募るばかりだ。肉体の各器官の見事なまでの働き、そしてそれらの器官群の生命維持への統一的働き、更には人間形姿の芸術的様相、若いときはひたすら外界への働きかけに意識は向いているから自らの肉体への奇跡的在り様など見向きもしないが、老いてくると、この肉体からどれほどの恩恵を生きている上で戴いていたかを思い知らされる。いつまでも若い肉体を欲するのは執着だろう。感謝の念で満たすのならまだしも、精一杯生きて生かされて来たのなら憂えるのは良神的ではない。しかし生きて摂理の為にできることはまだまだあったはずだと、その意味で老いゆく肉体が恨めしいと切に思うなら、異なる自我存在に魂を預ける形で地上界へ部分再臨することもあると私は思っている。
2026年10月7日水曜日
今日の想い 1497
地獄の在り様を延々と教えられてどうなって欲しいのだろうか。こんな地獄には行きたくないという恐れの感情のみで魂を満腹にさせると、そんな人間は、腹が異様なほど膨れた餓鬼の様相を想像してしまう。愛で魂を満たす霊人体にはなれなくて、内面に限ったことであっても己のことにのみ執着するという偽りの似非愛で魂を満腹にさせ、満腹の腹が割けて恐れがウジ虫となって這い出てくる。後天開闢時代という光の時代に、敢えて恐れで導こうとする意図が私には全くわからない。食口達の心霊はそんな内容に相対して、右往左往するほどに霊的に暗くて見通せないのだろうか。それは食口を見くびり過ぎてはいないだろうか。少なくともアボジのみ言葉にそんな地獄の様相を延々と述べられた言葉を耳にしたことは一度もない。しかしそういう私も恐れが不安と化して眠れない日々を送ってしまった。感謝に満たされ生かされて今の私があるのに、不安の連鎖で魂は充満し、それがいつ爆発するとも知れないという、私自身が地獄を這っていた。人のことをとやかく言える立場にはない。それでも私は御父母様によって天の祝福を戴いている。すなわち祝福という接ぎ木で天の血統圏に繋がる霊を種として、或いは苗として戴いている。それを如何にして育てていくか。確かに信仰は基台だから信仰は必要だろう。でも信仰基台の上で愛を授け受けする自分にならない限り基台の意味はない。信仰だけでは霊は育たない。そして愛は確かに為を思い為に生きる生活ではあるけれども、自我を否定して蔑ろにして愛に生きる私とはなれない。愛の発光体となるためには自分自身を本質的に愛して信頼し、褒めて慰労し、貴方はそんなところでくすぶるほど神は見捨ててはおられないと叱咤し、理想を見失わない自分ありきとならなければ為に生きるという言葉はどれほど空しい言葉だろうか。霊界はそれぞれに背負って生きているのであり、それぞれの背負った霊界に住まうことになる。天国を背負っていれば天国に、地獄を背負っているなら地獄に、そんなイメージされたような地獄を想起している時点で背負い子の中に敢えて地獄を組み入れている。
2026年9月29日火曜日
今日の想い 1496
イエス様の時代に人間の自我が備わったのではなく、堕落故にずっと表出されずに閉ざされていた人間の自我が、時の条件が満たされてやっと自我存在としての人間段階を当時迎えていた。救世主キリストとしてのイエス様が誕生され、地上で公生涯の3年を歩まれて、愛としての自我を備える人間が存在として可能になったが、もしイエス様の地上の歩みがなかったなら、自我存在だとしても利己的自我を備えた人間しか地上に存在できず、愛の星地球とはならなかったはずだ。精神科学、哲学家として有名なシュタイナーは霊界での人間の段階を大きく分けて3段階、各段階それぞれが3段階になっているので9段階としている。ずば抜けた彼の霊的感性は数々の神霊とやりとりし、創造歴史の遥かな太古を見通し、神の摂理である遠い未来をも見通している。彼の著述を読み進めれば実に論理的に、さらにわかりやすく宇宙の様相、創造過程、人間の様相、霊界の様相など、また科学の様々な分野を霊的な観点からも解読している。私は彼の代表的著述、神秘学概論から入ったが、原理を理解する食口であれば虜になることまちがいないだろう。原理に対して、特に霊界認識に対して実に稚拙なものに留まっていたかということがよくわかるはずだ。原理をより理解し、御父母様の価値をより理解する為に、彼の著述は最良だと思う。しかしその彼でさえ、精神科学とあるように科学という論理で見出したのであり、ということは心情圏に入ることで見出されたものではないので一面的とまでは言えないが全面的ではない。要するに愛の要素が欠けていて霊界も創造過程も冷たい印象を受けるのは否めない。現代人の科学信奉の間違いは、一方で内的平安、内的喜びを最も重要視しているにもかかわらず、現代の科学が及ばない内的領域に於いても科学が解決するはずだという妄想に執着していることだ。日本の進化論教育が人間が自我を備える霊的存在であることを隅に追いやって無視させてきた。宇宙があって私が存在しているのは外的な意味では現実だけれども、私があって宇宙が存在しているという内的な意味での現実もまた正しい。日本人の自我は自分が自我存在であることを認識できないほどに追い遣られている。上っ面で生きながらえるだけの浮き草であって、自我という霊的な柱が立っていない。自分に対しても他に対しても自我への尊厳が薄いものだから、魂の活動、特に喜怒哀楽が霊的な成長の糧になっていない。
2026年9月13日日曜日
今日の想い 1495
線状降水帯。この名称自体が実に強そうだ。海軍航空隊、とか神風特攻隊と並べても遜色ないほど強烈な印象を受ける。この線状降水帯なるものが日本列島のあちこちに飛来して、雨水爆弾を投下していった。日本が備えるべきは地震と津波だと誰もが認識していたが、まさか陸ではなく空からの襲撃に会ってしまうとはまさに寝耳に水だ。津波のように押し流されることはなくとも、線状降水帯なるものでこんな水攻めに襲われることを気象庁はわかっていたのかどうか。周辺国が襲ってくる前にこんな形で自然が襲ってくる日本とは一体どういう国家だろう。災害がここまで相次ぎ、休む場所すらままならない多くの国民がいるにも関わらず、相変わらずテレビは天下泰平の如く満面の笑顔のコマーシャルを流し続けている。日本はアメリカがどうこう言える立場には全くない。教会が洗脳される以前に日本の全ての国民が洗脳されている。これほどに平和ボケから覚めず、危機感の実に薄い国家が他にあるだろうか。机上の空論ではないが、机上の勉学漬けのみでそれで全てを学んだように満足しながら、国家として生き残る術を誰も教えないし、机から頭を上げて周囲の実情を学ぼうともしない。一体この日本のエセ平和の空気感を誰が蔓延させ、偏った一方的情報による操作の犯人は誰なのか。共産主義者だと食口は認識しているのだろうが、政権与党は本当にこの国の為の与党だろうか。教会は政権与党によって解散させられた、その事実をしっかりと食口は熟慮すべきだろう。わめいていたのは左派に与する者たちだが、しかし断罪したのは与党だ。私達が一生懸命応援していた議員たちだ。血が流れたって不思議ではない裏切りなのに、食口の誰が「罪を憎んで人は憎まず」のような聖人ぶった言葉を口にし、闘うことを良しとしないのか。ああ、また頭に血が上ってきた。こんな感情が沸き立ち制御できないものだから症状はますます悪化する一方だ。ニーチェの言葉であるルサンチマンは、悪魔の感情暴発だというのなら、神は恨みを抱えることはないのだろう。しかしアボジから教わった神は恨み骨髄にまで達する神だ。神が許す前に私達が許すべきではない。
今日の想い 1494
アメリカは、アボジが予言した通りに国運を下げ続けている。トランプへの期待度が大きかっただけに、彼こそが摂理的人物かと私でさえも期待はしたが、やることなすこと、そして何よりもその言動は国運を失いこそすれ、MAGAの言葉通りとはならない。アボジが語られた通りに斜陽するアメリカであれば、逆の意味でトランプは摂理的人物だと言えるのかも知れない。関税にだけに留まれれば、何とか許されるかなとも思ったが、イランに手を出した辺りから世界を牽引すべきアメリカの大統領としては相応しくないという強い思いに変わってしまった。民主党政権バイデンほどの酷い大統領は出てこないだろうと思っていたが、トランプがこれほどの大言壮語で、MAGAがこれほどの独善主義となると、どちらがいいとも言えず唸るしかない。当選当時とは随分支持率は下がりはしたが、それでもトランプを信奉する者達はまだ多くいる。この中間選挙の結果がどうなるか、共和党が負ければトランプ政権はレームダックだ。副大統領か誰か立てざるを得ないだろう。トランプ政権の関税から始まる足掻きは、前政権の、先を全く考えないドルのバラマキも含めて、莫大な40兆ドルにも及ぶ負債を抱えていることが原因ではある。バイデンによるロシアの外貨準備口座(ドル口座だから当然アメリカにある)凍結によって負債国家通貨でありながらも基軸通貨であるドル通貨の信用失墜を世界に公言した格好だ。BRICS国家を始めとして世界の中央銀行はドル外貨より金銀の現物にシフトしている。GOLD-ETFは金そのものと同じ値動きをする仕組みではあるが、所詮ペーパー商品、すなわち扱う証券会社が倒産すれば紙屑になる。ETFは売買が簡単だし現物と違って保管料もいらないし、さらにレバレッジ(てこの原理:少ない投資で数倍十倍の売買が可能)もかけられて、それ故に価格のボラティリティが大きくなっている。しかし現物投資している中央銀行などは買いはしても売ることはない。中国は既に現物預かりのないGOLD-ETFは廃止の方向で動いている。ということは中国は十分すぎる金地金の保有があるということだ。通貨を制する者が世界を制する。どう控えめに見てもアメリカより中国に経済覇権はあり、トランプ政権は莫大な負債故に足掻いているようにしか見えないが、果たしてどうなるか。イラン戦争で露呈したように、もはや武力ですらドル体制を維持できない。日本もアメリカ従属一辺倒でいいのかどうか、この舵取りに国家の存亡がかかっている。
2026年9月12日土曜日
今日の想い 1493
父の納骨を済ませてきた。先週の予定だったが、大雨の情報が入って一週間延ばした。墓苑の事務所にも連絡しお寺さんにも延期を連絡しての今日だったが、やはり一雨来そうな空模様で、父は雨男かと思ったが事無く納骨式を終えることができ私も母も一息ついた。読経されるお寺さんの後ろで所々挟まれる南無阿弥陀仏の反復だけは合わせて声に出したが、それは読経されるお寺さんへの配慮でしかないという思いと、この念仏で父が成仏するなら届いてほしいという思いとがあり幾分複雑だった。風邪をこじらせたのか数日前から微熱と咳が止まず、納骨式の間は汗が滝のように上半身から流れ出た。汗と涙で霊を洗い流せば新たな出発ができる。そう思い直して、もがけどもがけど出口の光が見えないこの年の運気を、今日を転機に何とか上昇運へと変えていきたい。この世に生を受けた以上この世での使命がある。教会が解散すれば摂理が止まるわけでもないし、教会からくる指示だけが摂理的使命でもない。運気は使命感の認識如何によって掴むこともできるし手放しもする。使命感の欠如が今の状況を引き付けていると、そう読み取るのが原理的だろう。短い読経が終わるとお寺さんは丁重なお悔やみを母に延べ、母はそれに感謝の意を返し、前もって渡しておいた布施を袱紗から震える手で取りだし渡した。私はこの場で解散する失礼を述べてお開きとなった。もちろん近い一周忌にはご足労願うことは伝えておいた。教会には儀式がある。そしてこの世にはこの世の儀式がある。儀式を挙行することで何らかの内的霊的区切りと、新たな出発が為されることを人間であれば誰でも知っている。形にこだわり過ぎることも問題だが、形に敬意を表さないのはもっと問題だろう。神も仏もない、死んだら灰となり無になるだけだと言い張っていた父だったが、残された者がその縛りを解いてあげなければ、もはや体を持たない父は霊の自由の光を封印したままで無力だ。70年を超えて連れ添ってきた母の表情は納骨を終えて付き物が取れたように穏やかになって、それを見て私は、ある意味長男としては裏切って出ていったが、父の私への恨を解いて善しとした。父はこれで自由の光を得て前を向ける。