過去を辿ってみて、私達は勝利した体験を持ち合わせているだろうか。様々な摂理的戦略がアボジから出されてきたが、それをアボジが勝利と認められ、私達もその勝利の実感を持ったことがあっただろうか。もしあるとすればアボジが立たれた大会の数々だろうけれども、それらが私達の中に勝利的体験として刻まれているのかどうか。アボジ自身は勝利を認識しておられただろうし、それ故に次なる霊的摂理段階へと駒を進められたのだろうが、問題は私達の中にその同じ勝利体験があってそのアボジの想いや認識を共有していったのかどうかだろう。それが無いか曖昧なら、その勝利は私と関係ありと言えるのだろうか。確かに外的な人数も、扱う万物も増えて大きくはなった。それは成功のひとつだろうと言えるかもしれない。しかし、今回解散させられてしまった。当然、成功の外的な意味は消え失せてしまった。少なくとも日本の教会は敗戦して潰されてしまった。日本人の霊性について研究されて、深い考察を持たれる鎌田教授は、常に勝者が政治や経済の権力を手にして敗者は敗者故の個と全体の否定感情から文芸や芸術分野に身を置いてきたと言っている。それは日本の歴史のみならず世界でもそうだが、敗者となった教会食口は国や世界を動かす政治や経済の道は閉ざされ、一端退いて内的確立を図り社会感情を動かせる道へとベクトルを変える以外ないだろう。今のまま突き進んでも、受け入れられる未来など想像もつかない。学会のような党を持てる力にも為り得なかったしこれからは更に活動を自粛させられる。聖和以降、教権の責任ある立場に立つ者がどういう摂理的方向性を取っていたのか、正直なところ私にはただ金集めと豪奢な神殿建設一辺倒の道しか見えなかった。あの建造物群は教権という権威の象徴なのか、或いはあの建設で霊的に突破できる何かがあるのか、摂理的意味のひとつも知らないし教えられていない。御母様が聖霊実体としての歴史的天宙的立場が、権威を立てられることだとはどうしても思えない。
逍遥の旅
五感を超えた世界、霊界を尋ね散歩しながら、思考、感情を通して教えられるものをブログ日記として書き溜めました。
2026年5月10日日曜日
今日の想い 1466
献身生活は共同生活だ。一つの館に大勢が住み、全体スケジュール中心でパーソナルな部分はほぼほぼ無視されて、ベルトコンベアに乗せられたように毎日が消化されていく。共同生活していればお互いをよく知り合い、情的にも深い付き合いになると思うだろう。しかし私達の実態は全く逆だった。大勢の中にいながらそれぞれは常に孤独だった。私に対して誰も心を開かないし自分から心を開こうとしたこともない。帰国してすぐ大会があって名古屋まで行ったことがある。名古屋は訪米直前まで歩んでいた場所だ。会場の中で当時の中心者から、懐かしい数人に合わせてもらった。私は相手を覚えていたが、しかし相手は私を覚えてはいなかった。辛うじて名前だけは思い出してくれた食口もいたけれども、お互いああそうですかで会話は終わった。日本で共に歩んだ兄弟で、付き合いを続けてきた兄弟は一人もいない。兄弟と呼んだり食口(シック)と呼んだりするけれども、食口どころか同僚ですらなかった。ほぼ前線で朝から夜遅くまで歩んでいたし、帰ったら疲れ果てていて、目をこすりながら食事と反省会を済ませ、後は寝るだけだから当然のことなのかもしれない。戦時の死ぬか生きるかの中で共に歩んだ、戦友と呼ばれる関係性とは全く無縁だった。食口は皆、堕落性を持つ罪人だった。異性との会話どころか同性であっても、冗談を言い合えるような雰囲気すらなかった。「根明のsouka、根暗の教会」だった。地獄を一度通過しての天国への道だということはよく言われたし、そう思って耐えてきたが、私自身日本の教会にそのままいれば通過はおろか地獄のまま抜け出せなかったかもしれない。教会にいる二世達が教会の存続にあれほど一生懸命なのは、私が通過してきた当時の教会とは中身が全く異なるからだろう。
2026年5月5日火曜日
今日の想い 1465
何を信じ何に従うのか、そしてこれからどうなるのか、暗闇の中に佇み続ける不安だけが魂を満たしていて愛の呼吸ができない。教会が混沌であるように世界も混沌の最中で、そんな状態で青空を眺め暖かな日差しを浴びても、この環境が一体誰の心象を表したものだろうとしか思えない。江藤淳が父の不在(天皇を戴く宗教性の不在)と母の崩壊(日本的倫理と秩序の崩壊)を記したように、教会もアボジの不在、そして三分裂からの解散命令によって、祝福家庭の価値を私達自身が問い、また問われている。今まではそれでよかったはずのイメージとしてのみ捉えていた観念的な全てを、本質的な概念として立たせない以上、私達の信仰基台は崩れていく。アダムエバもアベルカインも、そして万物主管も観念の域を出て概念として捉えてはいない。よって教会は地獄に行くわよという教条主義で教会秩序を保つしかなかった。しかし今教会自体が現実問題として崩壊している。形の上では既に母の崩壊が現実となり、独生女としての御母様という論理で立て直せるかどうかは甚だ疑問だ。神の全体的摂理はどこに向いているのだろうか。また祝福家庭の摂理はどうだろうか。人間個々の救いは教会を通せないとしたらどこに尋ねるべきなのだろうか。何もわからぬまま、何の光も見出せないまま、暗黒の期間を通過しているようだ。化石燃料が途絶えて電気がなくなれば世界の夜は真っ暗だろうけれども、既に私の内面はそれに先立ち荒涼たる暗黒が押し寄せている。
2026年4月14日火曜日
今日の想い 1464
世間は御父母様のことを教会員を洗脳した悪魔のように思っている。先輩食口の中にも御父母様を、神の摂理に応えられなかった、言葉と行動が相容れない、御家庭は教条に反するものばかり等々と、悪魔とは言わないまでも随分な言い分でもって、人生の大半を摂理に差し出してきた恨みを吐露している。それは先輩祝福家庭にも多く見られ、教会解散にも敢えて口を挟まず関係がなかったかのように黙っている。一部の二世達がどれほど前に立って闘う意志を見せようとも、我関せずの立場で同調することはない。私にはそうみえる。それは御父母様と教会への不信からそうなのだろうか。であればアボジが8割方が離れていくと言われたその言葉が成就したといえるのだろうか。そういう私自身も教会という組織、教会という形にこだわる期間は、後天時代以降終わっていると思っているので敢えて口は出さない。しかし教会や御父母様への不信から声を出さない訳ではなく、教会摂理は現教会が国の圧力で解散されてもしなくても変革し前進すべきだし、御父母様に対する認識を人間的なものから神霊的なものに上げていく必要があるからだ。私は先天時代の教会と献身して捧げてきた歩みが無駄だったとは思わない。堕落人間に口なし、カラスが白と言われれば白と言われる尋常ではない教会空気の中で、信仰の何たるかを知り、信仰は強度を増し、日本の摂理も世界摂理も進んできたと思っている。アボジが遺言として残された天聖経を始めとするみ言葉は道徳教本ではない。よってそこかしこを切り取って人間的判断でおかしいと言えるようなものではない。訓読しながら言葉の背後の神の心情を訪ねて受け取るみ言葉だ。私達も部分部分を切り取られてMCされたと人間的判断で裁きを受けているが、それも致し方なし、祝福家庭であっても人間だからだ。それに神霊に繋がった私達の霊的本質を一般の人間には理解できない。しかし私達が強く認識すべきことは御父母様によって神霊とも授受できる霊的柱を戴いたことだ。天の血統圏に繋がれたといってもいい。であるにもかかわらず、御父母様や御家庭を道義的に批判はしても人間的判断一辺倒で断罪する食口は、御父母様から受けた祝福を蔑ろにしており天の霊的血統圏から外れていると思っている。
2026年4月12日日曜日
今日の想い 1463
2026年4月2日木曜日
今日の想い 1462
花が咲いて、そして散る。形が為されて、そして壊される。人が生まれて、そして逝く。逝く人を見送る人も、また逝く人。それは千年も万年も無数に繰り返されてきたことであり、今もそして未来永劫繰り返される。かつては生まれて逝くその狭間でそれらの意味を問うても答えはなかった。だから意味を問うこと自体むなしく、意味を問えば問うほどに迷宮に入り込んで心を病む。心を病むのは霊達の孤独と根無し草による不安からくる。私はどうにも悩みすぎて心を病んだことがある。この世には悩む人と悩まない人がいる。悩まない人は今生が天の意識圏外にある者、すなわち終末に至らず悪く言うと霊も素通りする見捨てられたアブク存在に過ぎない。私は心を病むほどに悩んだけれども、奇跡的にも原理に出会い御父母様にまみえて深い絶望的悩みから解放された。私達は歴史の狭間で生きてきた数多の人間達が得られなかった答えを手にしている。そう、人類歴史を通して夥しい生死を繰り返しながら求めても求めても得られなかった、その答えとしての真理を手にしている。二世達にこの霊的歓喜がわかるだろうか。散る意味がわかり、壊される意味がわかり、逝く意味がわかる。そうなると地上を去りたくないというのは生きる欲としての執着でしかない。教会も解散されたのであれば、もはや潔く、新たに願われる摂理に目を向けるべきだろう。この期に及んで更なる解散に対する反旗を翻したところで、私は逆に摂理に反することになりはしないかと危惧する。解散命令がどれほど違法で教会存続がどれほど正しいかを今の時点で叫んでも世間は聞く耳を持たないし、それを訴えたいのであればこれからの私達の行動で認めてもらうしかない。神様は私を捨てないという確信があるなら敢えて教会にしがみ付く必要はない。摂理は次なるステージに展開され、私なのか組織体としての私達であるべきなのかは別途考えるとして新たな摂理に応えていくことに全集中すべきだ。
2026年3月26日木曜日
今日の想い 1461
一世は野宿してでも飲まず食わずでも、そして少々の嘘はったりを嚙ましてでもみ旨に生きる野太さが取り柄といえば取り柄だったはずが、二世への世代交代によって教会食口の在り様はよく言えば灰汁がなくなった、悪く言えば純粋培養で優しい人達だけの集まりになったということだろうか。純粋な教会二世達を見ていると、心優しいその性品を失って欲しくないと思うと同時に、そんなに心優しくてこの藪だらけ、敵だらけの騙し騙されの世間をどうやって生きていくのだろうかと心配になる。彼等は天国では生活できてもこの地獄の地上世界では生きていけない。二世も人それぞれだろうけれども、少なくとも教会に繋がっている二世達がこの状況で変わらないとすればこの世に生を受けるにまだ早すぎたことになる。そうなると彼等を内的霊的に育んだ、純粋な彼等が神様とイメージする神霊は、この解散命令を受けて尚、霊的中心足りうる神霊なのかどうかを自らの良心に問うべきだ。ハナ二ムであって一なる神様を否定するのかと怒鳴られそうだが、はなから誰一人として何らの差異もない全く共通の神様のイメージを持ち合わせている訳ではない。私のイメージする神様とあなたのイメージする神様が異なるのは、同じ原理を学び同じ真の父母に侍る食口であったとしても異なっていて当然だ。二世にとってはこの解散命令で内的霊的羅針盤である良心(良神)に、信仰とは何か、教会とは何か、等々今まで当然のこととしていた観を先ず尋ねて欲しい。そしてその羅針盤で新しい霊的大地に向かい希望を持って、強く雄々しく船出して欲しい。17世紀、英国の宗教弾圧を逃れて新天地に船出した清教徒達のように、、。具体的に日本を離れろと言っている訳ではない。以前記したようにもちろんそれもひとつではあるが、自らの観、それは人生観から始まり信仰観や神観すべての観を立て直すところから始まる。