2026年3月5日木曜日

今日の想い 1458

 今回の結果に至ったのには数えきれないほどの原因があるだろう。しかし根源の一つは、日本という国自体が信教の自由を受け入れない社会であり、民主国家の建前だけ立てて信教の自由という概念すら曖昧にして深入りさせない村社会だということ。日本は国民を愛で主管するのではなく飼い慣らしの国であって、当然自由の概念などもともとない。本来がそういう社会であるから、人々に波を起こすような目立った行動には目敏く、確実に制裁の度合いを増していく。記者会見であろうがインタビューであろうが、また普通の一般人との対話であろうが、彼等の多くは信仰を持つという感覚すら理解できず信仰の胡散臭さで鼻を押さえながら対している。信教者側がどれほど差別感情があるのを彼等に感じるとしても、しかしそれが日本人全般であって、日本の空気感でそう教育されてもいる。高裁は解散しても信教の自由を否定するものではないとしているが、教会食口は今までも、これからは今まで以上に、内外両面で普通の一般的日本人から差別的レッテルを貼られて、想いを声にする自由すら無くなっていくだろう。アボジはここまでの事態になることを予見されていただろうか。御母様はどうだろうか。アボジのみ言葉を改変させてまで権威を立てる必要があったのだろうか。清平の豪奢な建造群は日本食口をここまで追い遣って献金させても必要だったのだろうか。御母様も常に日本の犯した罪の対価を求められたけれども、結局御母様の子女である日本食口に全てのしわ寄せが負わされてしまった。それも当然だと思われているだろうか。一世は自らの意志でこの道を選んだのだから如何なる仕打ちも甘受して当然だとしても、しかし二世は違う。信仰に始まる親の観で育った彼等の居場所は無くなってしまった。それでも未だに教会本部や御母様の彼等にかけられる言葉は見当たらない。

2026年3月2日月曜日

今日の想い 1457

 黒の背景に白抜きの大文字が紙面に踊る。「米、イスラエル、イラン攻撃」「ハメネイ氏を殺害」。紙面を凝視しながら、何か未だに悪寒がして風邪が治りきらないような、そんな感覚を覚える。自分のなかでどう処理していいものか見当もつかない。摂理、また摂理で走ってきた私達の歩んだ意味はどこにあるのだろうか。本当に、些細ではあっても地上天国建設の柱の一部でもなりえたのだろうか。天宙復帰と大風呂敷を広げながら、結局は私達の自己満足でしかなかったのか。解散命令。ウクライナ戦争からの今度はイラン戦争。御母様の拘留。台湾有事への足音。私達が描いていた理想のイメージは悉く打ち砕かれ、無力に落とされるどころか反社会的団体として世間に蔑まされながら生きることを強いられる。大患難時代は世界の民の代表として、負わなければならない統一食口達の患難としか思えない。棚からぼた餅なのか天から降ってくるマナなのか、家庭の幸せばかりを強調する信仰観からは私達の復帰への意志を差し出せず、立ち止まったまま遠い空を見上げて天からの祝福のみを戴こうとしている。いつから統一食口は乞食の群れになり下がったのだろうか。エレミアの哀歌に記された嘆きのように、バビロンの兵がユダに侵攻し、エルサレムの神殿を破壊されて捕囚の身になり、エレミアの嘆きの言葉でやっと事の重大さがイスラエルの民達の身に染みたように、私達も嘆きの谷底を彷徨う路程を通過しなければ、本当の悔い改めを学ぶことはないのだろうか。

今日の想い 1456

信仰とは両刃の剣だ。彼が犯行に至った経緯に触れてみると、彼自身も含めて全てを破壊する意志に人生を捧げざるを得なかった家庭状況と経緯をみることができる。私がマインドコントロールされていると言われればそれは違うだろうとは思うが、妄信しやすいかどうかを問われれば、信仰者としてそうなりやすいのは頷かざるを得ない。私には彼の母親は典型的な妄信によるもののようにみえるが、本人にしてみれば妄信だと認めるまでは信仰、それも篤い信仰であって、おそらく多くの食口も妄信とは認めないだろう。八割方彼自身の問題であって、母の信仰行動に今回の問題があるとは食口の誰も言わない。日本の信仰はアベルを通して受け取る神様の願いに絶対服従で応えることだ。全てを捧げるように言われて、無いものは出せないにしてもあれば出すのは当然だと思っている。そして彼の母親はあったので出した。捧げることでどうなるかという家族の明日を心配するより、彼女にすれば従って捧げることが絶対服従だった。そのような事情と経緯を辿った食口は彼女だけではなく、献金路程に於いてそれなりの資産を持つ多くの既成夫人がそうだったはずだ。絶対服従が間違いだったのか、アベルの指示が間違いだったのか、献金摂理そのものが間違いだったのか、それともアボジの要求が間違いだったのか。今更そんな問いを立てたところでどうにかなるものではない。しかし、私達の信仰観、信仰とは何かを問わざるを得ない状況であることは間違いないだろう。信仰に組織的団体信仰なるものはない。信仰はあくまで私と神との関係であって、神の名を語る誰に対しても神の代身を認めるべきではない。信仰が妄信に変る一線を把握できるかどうかは信仰の内的動機にも依っている。寄りかかるものを求めることがどこまでも変わらず信仰動機であるならそれは真の信仰には至らない。神は親だから私の幸せを与え、家庭の幸せと健康を与え、霊界の喜ばしい環境をも与えてくれる? あり得ない。全くあり得ない。親なる神は私を神の子女としてどんな状況でも雄々しく強く闘い勝利して独り立ちすることを願っている。アボジの私達への願いは第二の真の父母になることであって、絶対信仰、絶対服従、絶対愛は私の良心に対する概念、生殖器に対する概念であって、人間アボジでもなければ人間御母様でもない。

2026年2月23日月曜日

今日の想い 1455

 好き放題喚きながらここまで来て、敢えて言うのもおかしいが、日本は日本の良心を是非に見せて欲しい。文部省であろうが司法であろうが、解散命令が度を越した仕打ちであることは、携わり調べた者当人がよくよくわかっているはずだ。それなのに良心に蓋をしたままで今までの流れにそのまま流されるのであれば、日本を背負う立場の彼等は霊的には日本を裏切ることになり、彼等こそが反日として消えない霊的刻印を押されることになる。それどころか日本そのものが宗教という精神性を蔑ろにし、霊性の立たない異邦サタン国家として他国から見做されることになる。日本が神側なのかサタン側につくのかの分水嶺がこの3月4日、高裁判決の日だ。確かに示された日本の摂理は日本の食口を使い世界摂理に貢献する一辺倒だったし、その為に日本食口は疲れ果て、更に反社会的団体だと焼き印まで押されてしまった。ここで翻すとなると司法も相当の決意と覚悟を要するだろう。日本は八百万の神だが、かといって国民がバラバラなのではなく、それなりに中心的な国家霊は立っているはずだ。だから日本の体を為している。日本食口が談判祈祷をするとすればこの日本の中心で大柱である日本民族霊という神霊だ。私達はその時に悔い改めとして、余りにも日本に対する意識も祈りも足らず浮いた存在であったことは素直に反省すべきだ。日本人としてこの日本の風土で育ち日本の援助を受けて学び、今尚多大な恩恵を戴いている。であるのに、その認識と感謝が足りなさ過ぎた。その身勝手さの独善性は裁かれて当然だとは思うが、それが解散命令という死刑宣告で精神を抹殺することが、日本の未来に対してどういう意味を持つのか見通せない神霊ではないはずだ。だから祈祷しながら神霊にそこを是非ついて欲しい。

2026年2月19日木曜日

今日の想い 1454

教会も流石に変革を迫られることになる。取り敢えず相当数の職員に退いてもらわなければ、信仰の拠り所である教会の一つすらなくなってしまう。しかしそれすら当面を凌ぐだけであって、生き延びる道の糸口すらつかめないだろう。解散命令は文字通りそうで、教会の名義すら奪われてしまうのだからほぼ何もできないと思った方がいい。反社会的な立場で公にできることなど一つもないし、個人や会社の名義と名目で集会を催すとしても、人知れず山奥でこっそりとやるしかないだろう。そんな隠れ食口であり続けることがいつまでも可能だとは到底思えない。そうなると日本を出て集まるか活動拠点を海外に置くかしか方策はない。本部教会がしっかりしていれば対策方針が出るだろうし伝えられるはずだが、当の屋台骨自体がどうなるかわからないとなると日本食口への対応など出来ようはずがない。こうなると教会長は牧会能力などさして意味を為さず、それ以上にモーセの覚悟と決意で出エジプトの陣頭指揮を執る必要がある。幸運にも私達の教会は世界にある。日本さえ飛び出す覚悟があれば生き残れる道は多分にある。生き残れるどころか日本人で食口であれば世界を舞台に成功できる。世界に出れば日本社会がどれ程低いガラス天井かが理解できるだろう。一世は今更感があるが、頭も柔らかく若い二世や三世は世界に飛び出して成功する機会を是非とも掴んで欲しい。危機をチャンスに変える絶好の機会だ。解散命令が教会食口の次元上昇の触媒となるはずだ。

2026年2月17日火曜日

今日の想い 1453

数代前から世話になっているお寺さんに来てもらい、やっと法要を済ませた。お寺さんも郷土は同じだが、過疎の地では生活もままならず、寺だけはそのまま残し市内に出ておられ、檀家の法事に東西南北走っておられる。当然寺の或る田舎にもいかれるが、もといた住民の殆どは市内と郊外に移り住んでいて、そこここの施設で法事を行う。今回、お経の後の法話は他力本願の話だった。余すことなく全ての人を幸せにしたいと、存在そのものがその願いに貫かれているのが阿弥陀如来だということ。人間の幸せは破闇満願、暗い心である無明の闇を打破して本質的幸福を得ることだが、その方法として他力本願、阿弥陀如来に帰依し、闇を打破して幸せになれること。帰依する方法として無心に南無阿弥陀仏(阿弥陀如来に帰依します)と念じ続けること。と、いったところだろうか。しかし私のように論理でもって阿弥陀如来の実在を差し出してもらえなければ、何とも掴みどころがないという者にとっては、帰依の入り口の段差すら超えようとはしないだろう。法話を聞きながら、こんな思いが出てくる時点で、いかにも自分には悟っているかのような気分があるなあと思われてため息が出てしまった。他力本願を人任せで何もしない批判として用いられることもあるが、己の弱さをつくづく実感した者であれば阿弥陀如来に全面的に帰依する他力本願は救いだ。もし原理を聞かずに人生の辛酸を舐めて後、法話の一つでも受け取っていたなら、原理の道を行かずに大人しく南無阿弥陀仏と念ずる私になっていただろう。そう思うと自分の意志でこの道に歩むことを決めたようでも、私を私とする中心的自我のみならず、それを支える様々な霊の意志が私の人生に働いている。どれほど反社のレッテルを貼られ、教会に言及することすら親族に嫌がられても、だからといって自分の歩みが間違っていたとは露だに思っていない自分は、揺らぐことのない多くの霊の協助で支えられている。

2026年2月15日日曜日

今日の想い 1452

寝ようと布団に入っても寝付けない。眠りについたと思っても急に交感神経が全開するのか、伏したまま起き上がらなければ不快に苛まされたままになる。ここひと月そんな状態が続いている。睡眠導入剤を出してもらおうかと思うが、血圧とアレルギーの薬を飲み続けているのでこれ以上増やしたくないし、飲んでみたとて朝までぐっすり眠れるのかどうかも不安だ。先日離れにいる母が、悪寒があるような気がして早めに床に就いているというので、逝った父がまだこの辺に居て寄りかかっているのではと冗談交じりに言ったものの、眠れない自分もひょっとしたらと思ってしまった。確かに不安が募ると眠れないことは多々あったが、眠れないこと自体に悩んだことは一度もなかった。しかし葬儀の後からずっとどうも具合が悪い。父は症状がどうであろうが退院して家に帰りたかったのはそうで、面会の度毎に帰りたいと口にしていたものの、それを叶えてやれなかった。子としてはそうしてやりたいのはやまやまだったが、母の気が重くなって両方具合が悪くなっても、と思ってどうしても決意できなかった。悔やむと言えば悔やまれるのだが、それは致し方なかったことだ。明日は父の四十九日の法事を行う。死んだら無になると疑わなかった父でも、迷わずに死者として当然の道筋を踏んでくれることを祈るばかりだ。