人は己の死の間近にあることを認識したとき、態度としてどういう段階を踏んでいくだろうか。先ず、まだ死ぬはずがないと抗うだろう。そして死への不安と恐怖を味わう。その上で死に対して受け入れようと死を友にするかのような親しみで不安を取り除き平安で満たそうとする。最期は死を準備し、迎える仏なり神に委ねる。私は未だ死の宣告も受けていないし、死が近付いている感覚もないから仮定でしかないが、当たらずとも遠からずだろう。しかし何度かの訳のわからない病に襲われた時、私は同じ路程を辿った。先ず直ぐにでも症状は回復するはずだ、どうやったら癒されるかと抗う。しかし時間と共に悪化したり回復の気配が見えない時、不安と恐れに対峙して病に対して内的用意を整える。この病を通して学ぶものがあり悟るものがあると、或いは何らかの条件として迎えていると納得させ、痛みや辛さを親しみで対する。最期は治ろうが治るまいが甘受し神に委ねる。病に限らず、何らかの受け入れ難い問題が発生したときも同じような路程を辿っていく。別に一般人に限らず食口だってそうだと思うが、身体的にしろ心的にしろ、或いは対外的問題にしろ内面の問題にしろ、我が身に起こって楽しいはずは到底なく、捨てられたという孤独感で感情の底を打つ。しかしその感情に主管され、拘束されれば、私はサタンの罠に嵌ることになる。悲観的感情を捨て置き、創造的行動に、そして奉仕する行動に身を捧げることだ。そうやって自分を押し出し、もがきながらでも感情に主管される私を乗り越え、意志を高く掲げて前進していく。それでこそサタンの子女ではなく神の子女だと証明できる。この道に来た以上その試練は何度も来るのであり、そして何度も乗り越えていく。
逍遥の旅
五感を超えた世界、霊界を尋ね散歩しながら、思考、感情を通して教えられるものをブログ日記として書き溜めました。
2026年6月16日火曜日
2026年6月10日水曜日
今日の想い 1473
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。 イザヤ書53章より、、
やがて来られる御方を栄光の主として預言されたところもあるが、神の一人子であるのにこのように人々から見捨てられる者として預言されたところもある。旧約のこの部分に触れるときに、私の心は動揺する。それはどうしても、御母様の状況と重ね合わせてしまうからだ。私が素直に天の父母様神観を受け入れ、独生女信仰に入っていくことができれば、自律神経に支障を来すほどの動揺には至らないだろう。しかし原理とアボジのみ言葉でまかりなりにも知恵がついた私は、どうしても御母様の言動と認識を素直に受け入れることができない。イエス様が地上におられた当時の、当然のこととしてユダヤの王として君臨される御方の絵を描いていた、そのユダヤ人からしてみれば、イエス様像が全く異なっていたと同じように、、。白い衣を纏って空から舞い降りる再臨主のイメージを描いていた、そのクリスチャンからしてみれば、東洋人のアボジを受け入れることができなかったと同じように、、。御父様を立てられ、良妻賢母の御母様こそ聖霊実体だと、思い込んでいた私も、御母様御自身こそが原罪なく、イエス様という一人子に対する独生女だと権威を立てられる御母様に対して、ユダヤ民族やクリスチャン達と同じ道を辿っているのだろうか。アボジのみ言葉に従わない御母様だから神の手にかかり、打たれて苦労しておられるのだ。そんな言葉を聞くのは一人や二人からではない。彼等の言動はイザヤ書に預言された言葉と同じだ。そこまで真逆に振れる言動は私にはできない。御母様の苦難は私達の痛みを負って下さった、私達の責任を背負って下さったからだと、その想いも当然あって、私の心は暗く混沌状態だ。
2026年6月9日火曜日
今日の想い 1472
日本が負けるもここまで悲惨な敗戦となった理由は、本土決戦に至るもやむなし、日本人総決死に向かわせた大本営判断の硬直化がもたらしたものだと思う。日本教会が解散にまで至った理由も、日本人ならではの硬直したアベルカインという日本全体の信仰観がもたらした結果と思っている。日本の教会の責任者にも食口にも、日本は摂理案件に犠牲となって当然、日本が潰れるまで搾り取れるだけ搾り取り天に捧げて当然という空気があった。今となっては不思議にも思えるが、中心者の言葉や指示にどこまでもいいなりになる犠牲的熱狂感が教会食口全体を覆っていた。しかし、熱狂感にのぼせている期間はそうそう長くは続かない。既に事件が起こる以前から、このまま放出し続けてどうなるのだろうという冷めた思いは誰もが持っていた。遠藤周作は沈黙の中でフェレイラ神父に、この国は沼地でキリスト教は根をおろさぬと言わせている。フェレイラが伝道した彼等が祈っていたのは、キリスト教の神ではなく日本流に屈折された神だった。はたして私達日本食口はどうだろうか。アボジがいう神と同じ神だろうか。キリスト教が祈る同じ神だろうか。仏の慈悲とキリスト教の神の慈悲の違いはというと、己の中には弱さしかないから仏にすがるしかないというのが前者で、己の強さを神への信仰で育んで自らが自らを救うのが後者だ。なかなか日本に居るとこの違いが見えてこないし、日本人の神観(ほとけ観?)は世界の神観と当然同じだと思っている。すがり信仰である清平摂理に着いてこれない西洋の食口が多いのも神観や信仰観が異なるところからそうなっている。日本の敗戦が悲惨になったのも、日本の教会が解散されたのも、自分は中心ではなく、自分は何もわかっていないし弱い存在だから周囲に合わせ、大本営やアベルの声に従うのみ、その結果と見ることもできる。そういう日本人の自我喪失(自分の中に霊(良心、良神)が立っていない)が本質の問題としてあるから同調圧力の村社会になってしまう。日本社会がそうであり、日本の教会もそうだ。
2026年6月7日日曜日
今日の想い 1471
ここ広島は、台風一過で穏やかな風が吹いている。温度は28度だが、湿気があるとないとで体感温度はこうまで異なる。何とも平和な午後だ。家路に着く児童達の、歩道橋の上で声高に言い合いその響きが青空に広がっている。こんな、穏やかで誰もが気を抜いている時に事は起こる。誰かの本でそんな箇所を読んだ記憶があるし、そう信じてもいる。ニュースを見ても、SNSを見ても、不安材料には事欠かない。ミサイルが方々で打ち上げられ、破壊も続き犠牲者も増えている。景気が良くなる兆しさえ見えないのに、それでもマーケットは青天井だ。そしてこの穏やかさだ。もう狂っているとしか言いようがない。アボジが語られていたD-DAYはどんな様子で来るのだろうか。或いは来ないのだろうか。D-DAYを前にしてX-DAYが来てしまった。私達は今、再臨のメシヤが地上におられない時代を生きている。すなわちアボジの口を通して摂理の実情を受け取れない私達だ。世界で起こっていることの本質的意味も、これから起こるであろうことも、この耳から受け取ることはもはやない。だから良心を通して尋ねる以外の方法はないにもかかわらず、私の霊的感性は、神霊の叫びを直接に受け取るほどには研ぎ澄まされていない。何となく感じるものがあるとしても、それは余りにも心もとない。先輩食口がどれほど科学的見地に立てと言われても、科学的論理的側面から摂理を見通せるとはどうも思えない。現実は、誰も得しないイラン戦争の継続、トランプの言動に踊りバブルを更に膨らませるマーケット、通貨の増刷に次ぐ増刷によるインフレと通貨価値下落、そしてこの秋には生活苦として忍び寄る資源不足と食糧不足。
2026年6月2日火曜日
今日の想い 1470
愛は関係性を無視しては表せない言葉だ。関係性の中で産まれ、関係性の中で育まれ、関係性の中で花開く。真の父母を根として繋がった食口達が愛の人格者であり愛の群れであるかどうかは、真の父母との関係性、兄弟姉妹との関係性の中で愛が産まれ、愛が育まれたかどうかだろう。蕩減路程の献身生活は従わなければ振り落とされる、思い描く愛のイメージとは真逆の歩みの連続だった。しかしアボジが語られた「過ぎてみれば愛だった」というみ言葉をひたすら胸に、そこを信仰の基として、生きて地獄の道を歩んできた。アボジは過去の困難をどのように愛と認識されたのだろう。アボジが言う愛の概念を私が受け取っていないことを考えると、そんな問いはアボジに対しても、愛に対しても無礼な問いなのかもしれない。愛はなくとも、少なくとも私はこの道に希望を感じて、その静かな高揚感で歩み始めた。歩みの中で希望の影が薄くなっていっても未だ辿り着けない愛、真の愛を手にできるという信仰を繋いできた。そして、歳を取った。今までの歩みの中で、試練なのか苦難なのか、その一つ一つを思い起こしながら、それらが愛に繋がるどんな要素が含まれていたのか、愛に照らし合わせてどう人格を形作ったのか、死の門を通過しなければ認識できないと一方で思いながらも問い続けている。はたして「過ぎてみれば愛だった」というアボジの言葉をこの地上で口にできるのかどうなのか。この星の存在理由が愛の完成であり、もし失敗するのなら人類を含め全ての存在はブラックホールに吸い込まれるだろう。トランプは最高のカードを切ったつもりが、最悪の結果になろうとしている。MAGAを立てる為には他国との関係性が重要であるにもかかわらず、独善的では関係性は立たない。関税、ウクライナ戦争、それからイラン戦争の経過をみればよくわかる。これから更にアメリカはもがけばもがくほど孤立していく。私達も真の愛を標榜するなら関係性を考えるべきだ。教会内だけに通じる道理では関係性は築けない。これまでの負の遺産をも無駄にせず、社会との関係性、国との関係性、世界の中での位置を、信仰の原則ではなく愛の原則から問い直してみるべきだ。
2026年5月24日日曜日
今日の想い 1469
教会がなければ生きていけないという「すがり信仰」であれば、教会がなければ死ぬこともできないと思うだろう。要するに教会による昇華式を挙げてもらわなければ堕落人間の死去と同じで、神様(御父母様)と共にある位相にまで引き上げられることはない、すなわち地獄行きとなる、と信じていることになる。教会の人生とこの世の人生が異なることはそうかも知れないが、教会の食口ですら誰一人同じ人生を歩むことはない。同じように、同じ昇華式を挙げてもらったところで誰一人同じ昇華(死)の道を歩むことはない。死の意味も死の状況も死への道筋も全て異なっている。肉体を脱ぎ去って故郷へ旅立った後、或る霊界の落ち着き処に赴くとしても同じ位相、同じ霊界、同じ霊的環境ですらないと思う。昇華式という儀式を用意された意味は、興進様の死を御父母様の愛で乗り越えられた、その愛の勝利圏を私達の死に対しても同じ勝利を儀式を通して相続することができるということだ。死の概念から聖和の概念へと、アボジの勝利で転換された。それはアボジの愛の勝利の概念をどの程度相続しているかによるのであって、食口間でいう昇華式という形だけ押さえれば天国に行けるなどと思わない方がいい。教会に長く付き合うことで、或いは当然のように通いつめることで、儀式の形だけにこだわりすぎて本質を見落としてはいないだろうか。祝福式の形だけ、昇華式の形だけ、そして祈祷の形だけかも知れないし信仰ですら形だけかも知れない。教会の中に神様が認める愛がどれほどあるだろうか。家庭の中にこの世の家族を超える愛があるだろうか。私は愛の人格を求めているだろうか。
2026年5月16日土曜日
今日の想い 1468
私達の本当の闘いはこれからだろう。私達が教会員として内外的に頼っていた、すがり信仰と言える部分の組織やシステム等の外的なものが破壊されれば、残るのは自分が御父母様から相続した内的霊的本質と、信仰生活を通して培った、心情とまで言えるかどうかは別としての内的霊的感性だ。絶対服従すべき対象を外に見ていた信仰観から、良心という私の内面に服従の対象を見るという戸惑いがあるのは当然だが、180度異なるように思える信仰観に馴染めないからと言って先天の信仰観にすがり続けるのは天の願いではない。それを無理くり続けようとするのは執着だ。時代は既に先天から後天に移っている。母子共助時代から父子共助時代に移っている。教会時代から家庭連合時代に移っている。以前も述べたようにアボジがいう家庭連合は名前を変えた教会ではない。蕩減時代から再創造時代に移っている。敢えて言えば地動説から私を中心とする天動説に移っている。アボジが陽暦から陰暦と言われたのは陽暦を否定されたのではなく、陰暦で読み解かなければ天の摂理が見えないということだ。そして世界を見ても既存の体制は崩れる一方だが、崩れると同時に次なる世界体制が芽を出し始めている。しかし既存の体制に執着する者は新しい息吹に対しては無感覚だ。