ここ広島は、台風一過で穏やかな風が吹いている。温度は28度だが、湿気があるとないとで体感温度はこうまで異なる。何とも平和な午後だ。家路に着く児童達の、歩道橋の上で声高に言い合う音が青空に広がっている。こんな、穏やかで誰もが気を抜いている時に事は起こる。誰かの本でそんな箇所を読んだ記憶があるし、そう信じてもいる。ニュースを見ても、SNSを見ても、不安材料には事欠かない。ミサイルが方々で打ち上げられ、破壊も続き犠牲者も増えている。景気が良くなる兆しさえ見えないのに、それでもマーケットは青天井だ。そしてこの穏やかさだ。もう狂っているとしか言いようがない。アボジが語られていたD-DAYはどんな様子で来るのだろうか。或いは来ないのだろうか。D-DAYを前にしてX-DAYが来てしまった。私達は今、再臨のメシヤが地上におられない時代を生きている。すなわちアボジの口を通して摂理の実情を受け取れない私達だ。世界で起こっていることの本質的意味も、これから起こるであろうことも、この耳から受け取ることはもはやない。だから良心を通して尋ねる以外の方法はないにもかかわらず、私の霊的感性は、神霊の叫びを直接に受け取るほどには研ぎ澄まされていない。何となく感じるものがあるとしても、それは余りにも心もとない。先輩食口がどれほど科学的見地に立てと言われても、科学的論理的側面から摂理を見通せるとはどうも思えない。現実は、誰も得しないイラン戦争の継続、トランプの言動に踊りバブルを更に膨らませるマーケット、通貨の増刷に次ぐ増刷によるインフレと通貨価値下落、そしてこの秋には生活苦として忍び寄る資源不足と食糧不足。
逍遥の旅
五感を超えた世界、霊界を尋ね散歩しながら、思考、感情を通して教えられるものをブログ日記として書き溜めました。
2026年6月7日日曜日
2026年6月2日火曜日
今日の想い 1470
愛は関係性を無視しては表せない言葉だ。関係性の中で産まれ、関係性の中で育まれ、関係性の中で花開く。真の父母を根として繋がった食口達が愛の人格者であり愛の群れであるかどうかは、真の父母との関係性、兄弟姉妹との関係性の中で愛が産まれ、愛が育まれたかどうかだろう。蕩減路程の献身生活は従わなければ振り落とされる、思い描く愛のイメージとは真逆の歩みの連続だった。しかしアボジが語られた「過ぎてみれば愛だった」というみ言葉をひたすら胸に、そこを信仰の基として、生きて地獄の道を歩んできた。アボジは過去の困難をどのように愛と認識されたのだろう。アボジが言う愛の概念を私が受け取っていないことを考えると、そんな問いはアボジに対しても、愛に対しても無礼な問いなのかもしれない。愛はなくとも、少なくとも私はこの道に希望を感じて、その静かな高揚感で歩み始めた。歩みの中で希望の影が薄くなっていっても未だ辿り着けない愛、真の愛を手にできるという信仰を繋いできた。そして、歳を取った。今までの歩みの中で、試練なのか苦難なのか、その一つ一つを思い起こしながら、それらが愛に繋がるどんな要素が含まれていたのか、愛に照らし合わせてどう人格を形作ったのか、死の門を通過しなければ認識できないと一方で思いながらも問い続けている。はたして「過ぎてみれば愛だった」というアボジの言葉をこの地上で口にできるのかどうなのか。この星の存在理由が愛の完成であり、もし失敗するのなら人類を含め全ての存在はブラックホールに吸い込まれるだろう。トランプは最高のカードを切ったつもりが、最悪の結果になろうとしている。MAGAを立てる為には他国との関係性が重要であるにもかかわらず、独善的では関係性は立たない。関税、ウクライナ戦争、それからイラン戦争の経過をみればよくわかる。これから更にアメリカはもがけばもがくほど孤立していく。私達も真の愛を標榜するなら関係性を考えるべきだ。教会内だけに通じる道理では関係性は築けない。これまでの負の遺産をも無駄にせず、社会との関係性、国との関係性、世界の中での位置を、信仰の原則ではなく愛の原則から問い直してみるべきだ。
2026年5月24日日曜日
今日の想い 1469
教会がなければ生きていけないという「すがり信仰」であれば、教会がなければ死ぬこともできないと思うだろう。要するに教会による昇華式を挙げてもらわなければ堕落人間の死去と同じで、神様(御父母様)と共にある位相にまで引き上げられることはない、すなわち地獄行きとなる、と信じていることになる。教会の人生とこの世の人生が異なることはそうかも知れないが、教会の食口ですら誰一人同じ人生を歩むことはない。同じように、同じ昇華式を挙げてもらったところで誰一人同じ昇華(死)の道を歩むことはない。死の意味も死の状況も死への道筋も全て異なっている。肉体を脱ぎ去って故郷へ旅立った後、或る霊界の落ち着き処に赴くとしても同じ位相、同じ霊界、同じ霊的環境ですらないと思う。昇華式という儀式を用意された意味は、興進様の死を御父母様の愛で乗り越えられた、その愛の勝利圏を私達の死に対しても同じ勝利を儀式を通して相続することができるということだ。死の概念から聖和の概念へと、アボジの勝利で転換された。それはアボジの愛の勝利の概念をどの程度相続しているかによるのであって、食口間でいう昇華式という形だけ押さえれば天国に行けるなどと思わない方がいい。教会に長く付き合うことで、或いは当然のように通いつめることで、儀式の形だけにこだわりすぎて本質を見落としてはいないだろうか。祝福式の形だけ、昇華式の形だけ、そして祈祷の形だけかも知れないし信仰ですら形だけかも知れない。教会の中に神様が認める愛がどれほどあるだろうか。家庭の中にこの世の家族を超える愛があるだろうか。私は愛の人格を求めているだろうか。
2026年5月16日土曜日
今日の想い 1468
私達の本当の闘いはこれからだろう。私達が教会員として内外的に頼っていた、すがり信仰と言える部分の組織やシステム等の外的なものが破壊されれば、残るのは自分が御父母様から相続した内的霊的本質と、信仰生活を通して培った、心情とまで言えるかどうかは別としての内的霊的感性だ。絶対服従すべき対象を外に見ていた信仰観から、良心という私の内面に服従の対象を見るという戸惑いがあるのは当然だが、180度異なるように思える信仰観に馴染めないからと言って先天の信仰観にすがり続けるのは天の願いではない。それを無理くり続けようとするのは執着だ。時代は既に先天から後天に移っている。母子共助時代から父子共助時代に移っている。教会時代から家庭連合時代に移っている。以前も述べたようにアボジがいう家庭連合は名前を変えた教会ではない。蕩減時代から再創造時代に移っている。敢えて言えば地動説から私を中心とする天動説に移っている。アボジが陽暦から陰暦と言われたのは陽暦を否定されたのではなく、陰暦で読み解かなければ天の摂理が見えないということだ。そして世界を見ても既存の体制は崩れる一方だが、崩れると同時に次なる世界体制が芽を出し始めている。しかし既存の体制に執着する者は新しい息吹に対しては無感覚だ。
2026年5月10日日曜日
今日の想い 1467
過去を辿ってみて、私達は勝利した体験を持ち合わせているだろうか。様々な摂理的戦略がアボジから出されてきたが、それをアボジが勝利と認められ、私達もその勝利の実感を持ったことがあっただろうか。もしあるとすればアボジが立たれた大会の数々だろうけれども、それらが私達の中に勝利的体験として刻まれているのかどうか。アボジ自身は勝利を認識しておられただろうし、それ故に次なる霊的摂理段階へと駒を進められたのだろうが、問題は私達の中にその同じ勝利体験があってそのアボジの想いや認識を共有していったのかどうかだろう。それが無いか曖昧なら、その勝利は私と関係ありと言えるのだろうか。確かに外的な人数も、扱う万物も増えて大きくはなった。それは成功のひとつだろうと言えるかもしれない。しかし、今回解散させられてしまった。当然、成功の外的な意味は消え失せてしまった。少なくとも日本の教会は敗戦して潰されてしまった。日本人の霊性について研究されて、深い考察を持たれる鎌田教授は、常に勝者が政治や経済の権力を手にして敗者は敗者故の個と全体の否定感情から文芸や芸術分野に身を置いてきたと言っている。それは日本の歴史のみならず世界でもそうだが、敗者となった教会食口は国や世界を動かす政治や経済の道は閉ざされ、一端退いて内的確立を図り社会感情を動かせる道へとベクトルを変える以外ないだろう。今のまま突き進んでも、受け入れられる未来など想像もつかない。学会のような党を持てる力にも為り得なかったしこれからは更に活動を自粛させられる。聖和以降、教権の責任ある立場に立つ者がどういう摂理的方向性を取っていたのか、正直なところ私にはただ金集めと豪奢な神殿建設一辺倒の道しか見えなかった。あの建造物群は教権という権威の象徴なのか、或いはあの建設で霊的に突破できる何かがあるのか、摂理的意味のひとつも知らないし教えられていない。御母様が聖霊実体としての歴史的天宙的立場が、権威を立てられることだとはどうしても思えない。
今日の想い 1466
献身生活は共同生活だ。一つの館に大勢が住み、全体スケジュール中心でパーソナルな部分はほぼほぼ無視されて、ベルトコンベアに乗せられたように毎日が消化されていく。共同生活していればお互いをよく知り合い、情的にも深い付き合いになると思うだろう。しかし私達の実態は全く逆だった。大勢の中にいながらそれぞれは常に孤独だった。私に対して誰も心を開かないし自分から心を開こうとしたこともない。帰国してすぐ大会があって名古屋まで行ったことがある。名古屋は訪米直前まで歩んでいた場所だ。会場の中で当時の中心者から、懐かしい数人に合わせてもらった。私は相手を覚えていたが、しかし相手は私を覚えてはいなかった。辛うじて名前だけは思い出してくれた食口もいたけれども、お互いああそうですかで会話は終わった。日本で共に歩んだ兄弟で、付き合いを続けてきた兄弟は一人もいない。兄弟と呼んだり食口(シック)と呼んだりするけれども、食口どころか同僚ですらなかった。ほぼ前線で朝から夜遅くまで歩んでいたし、帰ったら疲れ果てていて、目をこすりながら食事と反省会を済ませ、後は寝るだけだから当然のことなのかもしれない。戦時の死ぬか生きるかの中で共に歩んだ、戦友と呼ばれる関係性とは全く無縁だった。食口は皆、堕落性を持つ罪人だった。異性との会話どころか同性であっても、冗談を言い合えるような雰囲気すらなかった。「根明のsouka、根暗の教会」だった。地獄を一度通過しての天国への道だということはよく言われたし、そう思って耐えてきたが、私自身日本の教会にそのままいれば通過はおろか地獄のまま抜け出せなかったかもしれない。教会にいる二世達が教会の存続にあれほど一生懸命なのは、私が通過してきた当時の教会とは中身が全く異なるからだろう。
2026年5月5日火曜日
今日の想い 1465
何を信じ何に従うのか、そしてこれからどうなるのか、暗闇の中に佇み続ける不安だけが魂を満たしていて愛の呼吸ができない。教会が混沌であるように世界も混沌の最中で、そんな状態で青空を眺め暖かな日差しを浴びても、この環境が一体誰の心象を表したものだろうとしか思えない。江藤淳が父の不在(天皇を戴く宗教性の不在)と母の崩壊(日本的倫理と秩序の崩壊)を記したように、教会もアボジの不在、そして三分裂からの解散命令によって、祝福家庭の価値を私達自身が問い、また問われている。今まではそれでよかったはずのイメージとしてのみ捉えていた観念的な全てを、本質的な概念として立たせない以上、私達の信仰基台は崩れていく。アダムエバもアベルカインも、そして万物主管も観念の域を出て概念として捉えてはいない。よって教会は地獄に行くわよという教条主義で教会秩序を保つしかなかった。しかし今教会自体が現実問題として崩壊している。形の上では既に母の崩壊が現実となり、独生女としての御母様という論理で立て直せるかどうかは甚だ疑問だ。神の全体的摂理はどこに向いているのだろうか。また祝福家庭の摂理はどうだろうか。人間個々の救いは教会を通せないとしたらどこに尋ねるべきなのだろうか。何もわからぬまま、何の光も見出せないまま、暗黒の期間を通過しているようだ。化石燃料が途絶えて電気がなくなれば世界の夜は真っ暗だろうけれども、既に私の内面はそれに先立ち荒涼たる暗黒が押し寄せている。