一世は野宿してでも飲まず食わずでも、そして少々の嘘はったりを嚙ましてでもみ旨に生きる野太さが取り柄といえば取り柄だったはずが、二世への世代交代によって教会食口の在り様はよく言えば灰汁がなくなった、悪く言えば純粋培養で優しい人達だけの集まりになったということだろうか。純粋な教会二世達を見ていると、心優しいその性品を失って欲しくないと思うと同時に、そんなに心優しくてこの藪だらけ、敵だらけの騙し騙されの世間をどうやって生きていくのだろうかと心配になる。彼等は天国では生活できてもこの地獄の地上世界では生きていけない。二世も人それぞれだろうけれども、少なくとも教会に繋がっている二世達がこの状況で変わらないとすればこの世に生を受けるにまだ早すぎたことになる。そうなると彼等を内的霊的に育んだ、純粋な彼等が神様とイメージする神霊は、この解散命令を受けて尚、霊的中心足りうる神霊なのかどうかを自らの良心に問うべきだ。ハナ二ムであって一なる神様を否定するのかと怒鳴られそうだが、はなから誰一人として何らの差異もない全く共通の神様のイメージを持ち合わせている訳ではない。私のイメージする神様とあなたのイメージする神様が異なるのは、同じ原理を学び同じ真の父母に侍る食口であったとしても異なっていて当然だ。二世にとってはこの解散命令で内的霊的羅針盤である良心(良神)に、信仰とは何か、教会とは何か、等々今まで当然のこととしていた観を先ず尋ねて欲しい。そしてその羅針盤で新しい霊的大地に向かい希望を持って、強く雄々しく船出して欲しい。17世紀、英国の宗教弾圧を逃れて新天地に船出した清教徒達のように、、。具体的に日本を離れろと言っている訳ではない。以前記したようにもちろんそれもひとつではあるが、自らの観、それは人生観から始まり信仰観や神観すべての観を立て直すところから始まる。
逍遥の旅
五感を超えた世界、霊界を尋ね散歩しながら、思考、感情を通して教えられるものをブログ日記として書き溜めました。
2026年3月26日木曜日
2026年3月23日月曜日
今日の想い 1460
おかしく思うかもしれないが、一人残った母に新しい仏壇の購入を勧めた。田舎にある祖父が供えた仏壇は色も褪せ艶もなくなり、それでも移った家に移動させようとも思ったが、大きすぎて置き場所がない。無いということもないが部屋も小さくてどこに置くにしても合わない。小さな家には不釣り合いだ。しばらく御本尊だけを座り机を台にして置いてお参りしていたが、父が亡くなったのを機に、少し小さめで床の間に収まるものを迎え入れようと説得し、展示会場に連れて行った。小ぶりなものでも結構値が張る。湯呑入れのような最小のものから襖二枚ほどもあるものまで様々だった。一つ一つ見て回りながら値札を見て驚いてはいたが、「これが良さげだ」と展示会場の隅にある展示物の前で立ち止まった。光沢のない実に質素な箱だけの代物だった。安いのは安いがそれでも20数万の値札が付いていた。母にすればそれが出せる精一杯だったからそれを選んだのだろう。「お金のことは心配せんで気に入ったものにしよう。足りない分は出すから、、。」そう言って艶の或るそれなりの仏壇を見つけて指さした。母の顔色を窺うと気に入ったのはすぐに分かった。値段は倍で少し苦しいが生活費を削ってでも母の喜びには代えられないと思った。母としては見るだけだと思って勧められるままに来たのだろうが、契約を終えて帰る車の中で、「これも縁じゃけえ」と遠い耳に口を寄せて伝えると、母は納得したように嬉しそうにしていた。教会には献身もし、ビジネスでは誰よりも献金してきた。帰るまで親の生活費を援助したこともないし、誕生日には子供騙しのお菓子で済ませていた。ある程度まとまったお金でプレゼントした最初で、更に最後になるかも知れないという買い与えたものが仏壇か、、と複雑な気持ちになった。
2026年3月13日金曜日
今日の想い 1459
またしても頑張れ頑張れか、。何を頑張ればいいんだろう。御母様の言葉ですら頑張れの一言らしい。御母様ご自身は狭い拘置所内でどう頑張っておられるのだろう。自分はどう捉えたらいいのか。皆はどう捉えるのだろうか。かつて胸締め付けられるほどに御父母様に向いていた私の想いは、遠い昔にあったものとだけ記憶していて、当時の熱い想いそのままを胸中に思い描くことすら今は難しくなっている。原理で信仰に至り、その信仰によって相思に至り、その想いが心情に至るはずなのに、アボジの現実、そして御母様の現実や教会の現実が心情へ向かう翼を羽交い絞めしている。そう捉えてはいるが、はたして私の信仰を阻もうとするこの暗雲は本当のところは何なんだろうか。現実が大きく見えるということは一方の霊的事実が現実で遮られていることになる。最近は妙に体調が優れず、熱もないのに悪寒のような感覚が走り、微妙な震えを背中や手の先に覚える。未だ往生できない父のせいにして自分を偽っていたけれども、流石に四十九日法要を済ませてその言い訳は当たらない。今の信仰環境の現実、私の摂理観を見届ける心眼の曇り、それと体調は明らかに作用し影響し合っている。おそらく食口の多くは、御母様の願い、御母様の苦労を想いながら解放を祈願することに集中しているだろう。しかし御父母様の子女として、すなわち肉的な子供ではなく霊的子女としての私達の本分は、神の願いと心情を相続して摂理を担うことにある。食口全体としてその意識が欠けているように思えてならない。勝共の渡辺さんの声を枯らしての訴えを、スクリーン越しに見ながら嬉しくて涙が流れてきた。天宙復帰の神の意志が彼に働いているし、復帰精神の火は消えていないし、神は私達を捨ててもおられないと思った。
2026年3月5日木曜日
今日の想い 1458
今回の結果に至ったのには数えきれないほどの原因があるだろう。しかし根源の一つは、日本という国自体が信教の自由を受け入れない社会であり、民主国家の建前だけ立てて信教の自由という概念すら曖昧にして深入りさせない村社会だということ。日本は国民を愛で主管するのではなく飼い慣らしの国であって、当然自由の概念などもともとない。本来がそういう社会であるから、人々に波を起こすような目立った行動には目敏く、確実に制裁の度合いを増していく。記者会見であろうがインタビューであろうが、また普通の一般人との対話であろうが、彼等の多くは信仰を持つという感覚すら理解できず信仰の胡散臭さで鼻を押さえながら対している。信教者側がどれほど差別感情があるのを彼等に感じるとしても、しかしそれが日本人全般であって、日本の空気感でそう教育されてもいる。高裁は解散しても信教の自由を否定するものではないとしているが、教会食口は今までも、これからは今まで以上に、内外両面で普通の一般的日本人から差別的レッテルを貼られて、想いを声にする自由すら無くなっていくだろう。アボジはここまでの事態になることを予見されていただろうか。御母様はどうだろうか。アボジのみ言葉を改変させてまで権威を立てる必要があったのだろうか。清平の豪奢な建造群は日本食口をここまで追い遣って献金させても必要だったのだろうか。御母様も常に日本の犯した罪の対価を求められたけれども、結局御母様の子女である日本食口に全てのしわ寄せが負わされてしまった。それも当然だと思われているだろうか。一世は自らの意志でこの道を選んだのだから如何なる仕打ちも甘受して当然だとしても、しかし二世は違う。信仰に始まる親の観で育った彼等の居場所は無くなってしまった。それでも未だに教会本部や御母様の彼等にかけられる言葉は見当たらない。
2026年3月2日月曜日
今日の想い 1457
黒の背景に白抜きの大文字が紙面に踊る。「米、イスラエル、イラン攻撃」「ハメネイ氏を殺害」。紙面を凝視しながら、何か未だに悪寒がして風邪が治りきらないような、そんな感覚を覚える。自分のなかでどう処理していいものか見当もつかない。摂理、また摂理で走ってきた私達の歩んだ意味はどこにあるのだろうか。本当に、些細ではあっても地上天国建設の柱の一部でもなりえたのだろうか。天宙復帰と大風呂敷を広げながら、結局は私達の自己満足でしかなかったのか。解散命令。ウクライナ戦争からの今度はイラン戦争。御母様の拘留。台湾有事への足音。私達が描いていた理想のイメージは悉く打ち砕かれ、無力に落とされるどころか反社会的団体として世間に蔑まされながら生きることを強いられる。大患難時代は世界の民の代表として、負わなければならない統一食口達の患難としか思えない。棚からぼた餅なのか天から降ってくるマナなのか、家庭の幸せばかりを強調する信仰観からは私達の復帰への意志を差し出せず、立ち止まったまま遠い空を見上げて天からの祝福のみを戴こうとしている。いつから統一食口は乞食の群れになり下がったのだろうか。エレミアの哀歌に記された嘆きのように、バビロンの兵がユダに侵攻し、エルサレムの神殿を破壊されて捕囚の身になり、エレミアの嘆きの言葉でやっと事の重大さがイスラエルの民達の身に染みたように、私達も嘆きの谷底を彷徨う路程を通過しなければ、本当の悔い改めを学ぶことはないのだろうか。
今日の想い 1456
2026年2月23日月曜日
今日の想い 1455
好き放題喚きながらここまで来て、敢えて言うのもおかしいが、日本は日本の良心を是非に見せて欲しい。文部省であろうが司法であろうが、解散命令が度を越した仕打ちであることは、携わり調べた者当人がよくよくわかっているはずだ。それなのに良心に蓋をしたままで今までの流れにそのまま流されるのであれば、日本を背負う立場の彼等は霊的には日本を裏切ることになり、彼等こそが反日として消えない霊的刻印を押されることになる。それどころか日本そのものが宗教という精神性を蔑ろにし、霊性の立たない異邦サタン国家として他国から見做されることになる。日本が神側なのかサタン側につくのかの分水嶺がこの3月4日、高裁判決の日だ。確かに示された日本の摂理は日本の食口を使い世界摂理に貢献する一辺倒だったし、その為に日本食口は疲れ果て、更に反社会的団体だと焼き印まで押されてしまった。ここで翻すとなると司法も相当の決意と覚悟を要するだろう。日本は八百万の神だが、かといって国民がバラバラなのではなく、それなりに中心的な国家霊は立っているはずだ。だから日本の体を為している。日本食口が談判祈祷をするとすればこの日本の中心で大柱である日本民族霊という神霊だ。私達はその時に悔い改めとして、余りにも日本に対する意識も祈りも足らず浮いた存在であったことは素直に反省すべきだ。日本人としてこの日本の風土で育ち日本の援助を受けて学び、今尚多大な恩恵を戴いている。であるのに、その認識と感謝が足りなさ過ぎた。その身勝手さの独善性は裁かれて当然だとは思うが、それが解散命令という死刑宣告で精神を抹殺することが、日本の未来に対してどういう意味を持つのか見通せない神霊ではないはずだ。だから祈祷しながら神霊にそこを是非ついて欲しい。