桜井がそう唄うように、愛の正体は見えないし聞こえないし触れることもできないし、自分の中の愛の概念は何歳になっても定まらず、どこの誰よりも愛という言葉を使いながら、しかしその意味がわかっていない。恥ずかしいことだ。社会の進化と発展、大きくは天宙の進化と発展は愛の投入によって為されるというのは原理だろうし人類の直感でもあるだろう。神様が見えないように愛も見えないけれども、結果としての愛の実は対象概念として捉えることができるから、原因的愛は確かに存在している。決して感情を揺さぶるものだけが愛ではないし、愛と認識していないことの多くもそこには愛が内在しているはずだ。困難という結果であっても、それがどれほど厳しくも打ちのめされる事柄であっても、その背後に愛を見出すことを諦めてはいけない。自然の美しさは愛を投入した創造結果の愛の実だろうし、癒しの芸術は人間の愛による表現創造としての愛の実だろう。社会の秩序も理想実現に人間が投入してきた愛の実だとは思うが、そこは未だ修正を必要とする進化段階にある。女の性という存在は男の性にとっては美の対象としての愛の実だ。愛の実の中核が凹凸にあるという言葉は十分に頷けるが、しかし愛の実を無分別に取って食べて味わえばいいというのは、投入された愛を蔑ろにしている。社会秩序という人類の愛の現実に於ける結果からしても、秩序を無視した奔放は投入された愛を無視している。愛の実に対する時、愛の本当の意味を未だ知らないという謙虚さの上に尋ねなければ、その意味をはき違えてしまう。先ほど女の性、男の性としたのは、女の身体だから女性、男の身体だから男性とはならない現段階の摂理的状況があるからだが、思考が柔軟で包容力の高い夫婦を敢えて選んで生まれることを決めたかのように、この時代にLGBT達は多く産まれている。ホモやレズは罪だと問答無用で切り捨てる原理信仰が、彼等の救いに対しては全く無力であることは一目瞭然だ。無力どころか引きずり出して断罪しようとしている。愛の実に関わる性の問題、同性愛の問題を含めた人類の問題に向かい合うとき、真の愛を只の言葉としてではなくその意味を知る大きな試金石として対さなければならない。私達も原理信仰から愛の信仰に蛹を脱がない限り、何度名を変えたとしても独善的カルト宗教として益々孤立化するだろう。確かに宗教と科学は手を組んでこそ人類の希望となり得るが、愛の欠けた論理的原理解釈によって、歩み寄る姿勢が逆に両者を引き離す独善にベクトルを取るとすれば、愛による主管あってこその統一原理のはずが、統一ありきの原理で愛を主管するようになってしまわないか。私達は原理集団を目指したのではなく、愛の群れ、他の為に生きる真の愛の群れを目指していたのではなかったか。いつから原理の剣を上段に構えて同性愛を異質な罪悪存在とする群れ、お互いを断罪する群れになってしまったのだろう。いつから他を蹴落としてまで天国に執着する群れになったのだろう。そんな個人も団体も、真の愛とは程遠く、愛の本当の意味を知らないし尋ねることもない。