入宮式が終われば霊界が一気に開け、天運到来で解散問題も解決し教会は大きく発展する。そんな、教会儀式ある毎の御決り楽観的観測。もういい加減にしてほしいと思うけれども、そんな言葉通りのお花畑的な希望を、どれほどの食口が抱いて入宮式に臨んだのだろうか。未だに幼い子供に飴を与えるかのような感覚で教会員に対するものだから私達は一向に成長しない。一向に足が地に着かない。何の基盤もない。ここまで貶められ仕打ちを受けながらそれでも夢から覚めない。確かに多くの食口は天然記念物的存在なのかもしれない。入宮式が終わっても解散の流れは変わらないし、それどころか本元では国権から嫌疑をかけられたり捜査されたりして、韓国のメディアはこの違法性のあるなしに連日触れて成り行きをみている。元本部長どころか御母様さえ収監の可能性があるとなると、或る食口はアボジのダンベリーの時と同じ状況をそこに見るようで、神側は先ず打たれて後に勝利するというような、これまたより摂理としてありそうな見方をしているけれども、それ以前に果たしてこれは摂理と言えるのか、即ち神が認める真の母故の摂理なのだろうかということだ。アボジは御母様が勝利されることを願われながら聖和されたけれども、入宮式を終えられたから自動的に勝利されたというのは神のみぞ知るであって、その判断は御母様でもなければ、ましてや周囲の者でも一般食口でもないだろう。だから私としては何とも言えない。何とも言えないが、私の摂理的感覚からするなら、もし御母様が国家権力によって法的罪だと下され、収監されるなり何らかの受難を受けられるとして、その場でどういう態度と言葉を食口に、国に、世界に発信されるかによって、御母様が御自身で語られるところの位置の認否が神によって決められるだろう。受難を逃げずに堂々と甘受されるかどうかだ。アボジはダンベリーを勝利して出られたから、キリスト教を始めとする宗教界に認められ、そこからのアボジの摂理的行動には大変な勢いがあった。受難の場で本物か偽物かを決められてきたのはアボジもそうであり、イエス様であってもそうであり、あらゆる聖人君子も、そしてトランプでさえもその試練を通過してきた。もちろん私自身も、そして全ての食口も本物の信仰か否かの試練を必ず通過するはずだ。
2025年7月29日火曜日
2025年7月27日日曜日
今日の想い 1400
父が20日間の入院治療を終えて取り敢えずは帰ってきたが、決して良くなって帰ってきたわけではない。母は父が何かある毎に、人間そう簡単に生を終えられる訳ではないとしみじみ口にする。今回も何を口にしたかと言うと、「まだ逝けずに戻ってきた」が開口一番だった。父は動きも遅いし足も悪く度々粗相をしでかす。紙パンツは履いているもののその始末は大抵の場合母がすることになる。要介護で介護ベットも入れたしポータブルトイレも用意したが、しかしそれで母の老々介護が楽になる訳ではない。でもその辛さからつい出た言葉というのではなく、近々の自分のことも含めての、死そのものに対する思いだというのはよくわかっている。食口は生死だ霊界だと常に口にしながら、死を間近にしている者とは随分距離があり寄り添おうともしなかった。決して皮肉で言っているのではなく、願われたみ旨とノルマで精一杯で、死人は死人に任せて置けが当然だった。私が決意して事業を閉め帰国するに当たっても、サタンだ何だと批判はするも自分の思うところを頑張れとエールを送ってくれる食口はいなかった。私は不信仰者の烙印を押された。それでも自分としては親を無視できなかった。親から見れば長男としてそれなりの期待もしていたろうに、その想いを一蹴して縁を断ち切るようにこの道に入った。私のみ旨は親の、子に捨てられた思いによって支えられてきた。そこを無視してでも留まれという中心であるなら、その中心に神は働いてはいない。しかし当時の中心は頸を傾げながらもOKは出してくれた。御蔭で今、私は私自身の昇華に対してしっかり向き合い歩んでいる。その一里塚が父の門、そして母の門、おそらくその次にくぐる門として妻の門、その後に私の昇華門が見えてくる。母が言うようにそう簡単に門をくぐることはできないし、門を見出すまでの内的霊的道筋も探り探りだ。それは本人もそうであり周りもそうだ。しかし逃げてしまうのは愛の道ではないと思う。それでも皆は死人は死人に任せて置けということらしい。
2025年7月25日金曜日
今日の想い 1399
石破政権はとんでもないポカをしでかした。もちろん関税交渉の件なのだが、どうしてここまで愚かな提案を飲むに至ったのか、よっぽどの経済金融音痴か国を貶める使命に燃えているのかそれとも只の馬鹿なのか私にはサッパリわからない。こんなものを飲み込むより25%だろうが35%だろうがアメリカが提示する関税を受け入れる方が余程良かった。車に関税をかけられて払うのは輸入元でありディーラーでありそしてアメリカの消費者だ。アメリカで売らなければ関税100%だろうが関係ないし、輸出が全てだと思うなら関税かけられても買いたいとおもう車を作る以外ないだろう。トランプは関税の影響と同じような働きをする日本の消費税に対して文句の矛先を向けていたのだから、消費税を無くしますと言ってしまえば交渉の余地はあったはずなのに、交渉といってもお願い一辺倒だから結局ババを掴むことになる。これで日本には交渉のカードとして持ち合わせているものが全くないと世界に曝け出してしまった。これから日本は関税で輸出は減るは80兆円もの大金を出すはで国民の首を荒縄でしめあげるわけだ。消費税減税どころか20%越えになるかも知れないし、虎の子だった年金基金は空っぽになるかも知れない。実際25%の関税が掛けられたとして、アメリカ市民がどこまで我慢できるか、ましてや米国産車であっても組み立て工場を国外にもっているとか部品は国外から調達しているとか何だかんだで国内企業も関税のあおりを喰らうことはわかっている。これは現代の黒船(鎖国あらため黒船)政策であってこれが数年を超えて続けられるはずがない訳で、そこまで見通して交渉に臨んでほしかった。日本が対米追従路線を取っているとしてもここまで従属する必要など毛頭なかろうに、日本の交渉能力はここまで堕ちてしまったかと悔しくてならない。
2025年7月22日火曜日
今日の想い 1398
今年もあの、8月6日が近付いて来る。一週間前一斉に蝉が泣き始め、子供達が学校から解放され、暑さによる琉汗で身を清め、次第に鎮魂の環境が整えられていく。しかし犠牲を供えた者達の恨みは何年も前から既に払われていて、本来なら式典の在り様から変えていくべきだと思う。彼等は被害者ではなく犠牲を供えた聖なる位置にある。この前、アメリカ軍によるイランの核施設攻撃の折、トランプが放った言葉が物議をもたらした。「広島と長崎の例は使いたくないが、あの一撃で戦争は終わった」。原爆投下を正当化しているとの批難の声がマスコミに踊ったけれども、言い回しではなく、その言葉自体に噛みつくのは間違っている。敢えて、使いたくないがと前置きしているのは被害を被った関係者への配慮からで、それでも広島長崎の言葉を使ったのは原爆使用で取り返しようのない事態に至ることを使用国故に両国に思い知らすことにあった。逆に私はトランプの言葉を受けてよくぞイスラエルイラン両国、そして世界に向けて広島長崎を発信してくれたと思っている。トランプ関税による各国とのディールまたディールで、自国アメリカの延命に汗をかいているトランプだが、しかし意外と人情に篤い面も見るし、他の大統領はというとただただ避けるばかりで広島のヒの字も口にしたことはない。私にとっても、世界にとっても広島長崎は聖地だ。触れたくも近付きたくもなかった、県民の趣味を疑うほどのお化け屋敷、その平和記念館も数年前から見るに堪え得るものとなったし、駅も改築改装されて賑わっている。完璧なる荒廃から数年で復活復興した広島は奇跡でもあり希望の都市そのものだ。熱射被爆の人々で埋め尽くされた幾本もの川面も、今では光の帯となって緩やかに流れている。
2025年7月20日日曜日
今日の想い 1397
本来の家庭連合へのシフト? ということは少なくとも会長は今までの家庭連合は本来の姿ではなかったと認識しているということだ。でありながら一般食口に対しては教会が名を変えただけの家庭連合を当然のように受け入れていることに対して認識を変えようとはしていなかったことになる。教会?には先天時代の意識そのままにアベルである中心の言葉そのままを受け入れる空気が未だ覆っていて、言葉の背後を見ようとするどころか疑問を抱くことすらカイン的だと思っている。中心者をどうこう言うつもりは毛頭ない。別に宗教組織であろうがなかろうがピラミッド組織とはそういうもので、お上の通りに動いたことで下位組織員は言われた通りやったという理由で責任を回避できる。その意味で一般食口は組織に甘えている。お上が善だといえば善であり、悪だといえば悪になる。深い瞑想や熟慮によって良心に問う面倒臭さはない。返す返すもアボジが家庭連合を立ち上げられた時点で教会組織をスクラップしておけばよかったと思う。現世界に対する責任は回避できたとしても霊界では自分の歩みに対して責任は回避しようがない。今は社会においても国に於いても、またグローバル組織に於いても旧態依然のピラミッド組織ではやっていけない時代に入っていて、その混乱を見ている。ということは既存の組織に属さなくとも認められる時代である訳で、教会の中心者を通さなくともそれぞれの良心から直接願いや使命を受け取ることができる。その代わり当然のこととして責任は良心に応えるかどうかの私にかかる。アボジが話されていた選挙のない社会とは首長を立てなくても生活できる社会であり、家庭連合は良心連合として先端意識で世界を牽引していた、はずだ。
2025年7月16日水曜日
今日の想い 1396
2025年7月15日火曜日
今日の想い 1395
昨日父に対して強く言い過ぎた、幾分の申し訳なさを覚えながら部屋を訪ね居間の引き戸を開けると、心地よい冷風が顔を包んだ。暖房をつけていなかったという安堵で私の表情は緩み、父に目をやると教えたタブレットによる囲碁に対峙していた。そして私が怒り紛れに言い放った、寒いのであれば冬用上着でも着て置けの言葉通りに、厚手のジャケットを羽織っていた。息子の言う通りにしおらしく着用している父の様を見て、このクソ暑いのにジャケットを羽織る可笑しみに笑みがこぼれもし、また申し訳なさで目頭が熱くもなった。父はパチンコが大好きで、腫瘍で痛みが増しても連れて行ってくれと言うほどだ。足もおぼつかないし、いつよろけてこけるかも知れないのでパチンコ通いはこれまでだと申し渡したのだが、背中を丸めて大人しくしている父があまりにも切なくて、自分で歩けるなら試しに行ってみるかと声をかけてしまった。途端父は顔を上げて、小動物のマナコのように私を見た。そして微笑んだ。歩行補助器に手をかけ、肺炎で呼吸も苦しいだろうに何とか立ち上がると財布を広げて確認した。いい加減にしろと母は吐き捨てたものの、生気を失っていた父に気合が入ったのは嬉しかったようで、靴下を準備したりマスクを持たせたりしていた。父は玄関の階段でも玄関からの上がり框でも何度か転んでいる。果たして店まで連れて行って台にまで辿りつけるかどうか心配だったが、意志あるところに道ありで補助は必要だったが小一時間楽しんで満足して帰ってきた。 私としてはつい口に出してしまった後悔半分、いや父の生気の入った顔を見た喜びの方が後悔よりは勝っていた。でもこの飴がどうこれから作用するかはわからない。明日をも知れぬ命なら好きなようにさせてやりたいところだが、周りの心配を思うと複雑な心境になってしまう。
今日の想い 1394
イスラエルとイランの関係性が今後どのようになるのか。しかし今までのように常に仲違いしながら時折攻撃したり少し引いたりの繰り返しを永遠に続けることはできない。イスラエルの中にも強硬派ネタニヤフに反する勢力もあるし、イランだって現体制に対して批判的な勢力だってあるのでこれまでのようにイスラエルもイランも一枚岩ではない。ネタニヤフは毒草が政権に生えるほどに長すぎたし、イランもイラン革命以降のイスラムシーア派である最高指導者ホメイニからのハメネイという政権に対して批判は年々高まっている。だから今では反勢力も含めて様々な動きがある。しかしイスラエルの世界的影響力は様々な国に浸透し、勿論アメリカ内部にも深くかかわっていて、その点に関してイランはイスラエルに対してどうしても孤軍奮闘の域を出なかった。小国イスラエルがあれほどに影響力があるのはまさにそこにある。ユダヤ民族から日本はこれからどう対外政策を取っていくかを学ばなければならない。日本が世界の情報を手にし、また世界各国への影響力を持とうとするなら、ユダヤ民族が世界に散って行ったように、中国が華僑や華人として世界に在留や移住して生活基盤を立てているように、日本人もまた世界に出ていくことが結局日本を護ることになる。その意味では教会はアボジの国際マッチングによって日本のどの団体よりも海外移住を成し遂げている。にも拘わらずその情報網や影響力を日本に対して持てないのは、日本の教会が、日本食口が、日本を何とかしようと思えるほどに日本に対する愛情を持てていないからだ。原理の何処を読んでも日本の国を愛しなさいとは書いていない。二世の訴えを聞いても、信仰の自由や彼等の幸福になる権利は叫んではいるが、このままでは愛する日本が滅びるという憂国の言葉とか日本を愛するが故の言葉は聞かれない。この日本を愛さないのであれば、日本から追い出されるのは別に解散させられようがどうだろうが日本の霊的背景から守られることはないだろう。私はこの日本がどれだけ私を包み愛してくれたかを知り、また日本を愛する意志を育むためにも一度日本から飛び出すことを強く勧める。故郷は遠きにありて思うもの、ではないけれども、日本を外から見て故郷日本への想いに至ることは、み言葉を信じれば尚更強くなると思っている。
2025年7月12日土曜日
今日の想い 1393
父は完全な認知症とまではいかないが、認知症ではある。昨日何をして何を食べたかは殆ど覚えていない。家族も親戚もちゃんと認識はしているし会話もちゃんとできる。しかし近々の事は忘れるし時々父の言動が周囲に大丈夫だろうかと思わせるような不安を抱かせる。既に90を超えているので当然といえば当然なのだろうが、そんな様子を覗かせた時、子としてどう対処したらいいのかわからない。父の子だからどうしても情けなさの感情が先に出てしまって冷静になれない。間質性肺炎を患っているし大腸がんで既にあちこちに転移している。腫瘍が大きくなって手術が必要なのだが、耐えるだけの体力はないので腸の一部にステントを入れて応急措置としたのだが、それが役に立たなくなったり腫瘍が破れればそれで終わりだ。それが明日かもわからないし数か月持つかもしれないし、と言うのが現状だ。6月半ばには既に肺炎なのに感染症を患いひと月足らず入院していた。担当医は介護も処置も必要なので緩和ケアの施設を紹介すると申し渡されたのだが、手がかかるとしてもできるだけ自宅で余生を送らせたいと思い辞退した。いざ退院して連れ帰ったのはいいが、この暑い最中寒いと言い出し冷房を消すならまだしも暖房を入れたようで、蒸せるような熱い部屋に父と母で座っていた。最初はリモコンのボタンを押し間違えたのかと思ったが、母によくよく聞いてみると寒いと言い出して暖房を入れるらしい。父は母の言うことなど勿論聞かないから、母は父の為すがままにして我慢するだけだ。私は情けなさで感情を抑えられず、父に対してどうしても言いつけるような説明や物言いになってしまう。そこまで言って聞くか聞かないかなので仕方がない部分もあるのだが、何とも後味が悪いし申し訳なさが残ってしまう。対するときは親と思わず幼少期の子供だと思って接する必要があるらしい。老々介護の悲惨さや介護の問題で傷害に至るような話はよく聞くけれども、自分が同じ立場に立ってみて、やもすれば何か仕出かさない訳でもないことがよくわかった。しかしこれもまた愛の訓練だろう。人間とは最後の一息まで愛の試練と訓練を受ける存在だ。それが終了と認められた時が息を引き取る時だ。それにしても高齢社会ニッポン何処へ行く、だ。高齢者の割合が人口の半分以上を占め、少子化で少ない若者に高齢者を養うための高い税負担を強いている。帰国して日本がこれほど高い税だとは思わなかった。今の日本は本当に希望が見えない。参議院選挙が間近だが、与党は国民に顔を向けていないと相当数思っているはずだ。
2025年7月10日木曜日
今日の想い 1392
人事で岩手に移動しそこで歩んだ頃はまだ二十歳にもなっていなかった。何か悟ってこの道に来たのではない。ただただ言い知れぬ何かに突き動かされて、悪く言えば悪い熱に罹ってうなされるようにして歩み始めた。おそらく多くの食口はそうだろう。あの膨大でどこまでも深いみ言葉など数度の修練会や一年足らずで理解できようはずもない。神も霊界も、罪も救いもみ旨の歩みの中で探っていく路程だ。とは言え実践と実績は常に追求されるのであって、み言葉がわからなければわからないなりに、歩む為の動機付けを外界の何かから得なければならない。多くの食口の場合セールス本だったり実用書だったりする訳だが、飛び込みが嫌でたまらない私はとにかく自分を慰める飴を選んで嫌いな歩みを続けることを選んだ。私にとっての身近な手に入る飴は音楽だった。なけなしの小遣いを貯めて中島みゆきのテープを買ったことがある。中島みゆきの歌は詩といい旋律といい日本人の孤独な寂しい感情に共感しひと時の慰めを得ることができた。中島の歌は日本人特有の歌で、なかなか海外に受け入れられるとは思わない。おそらく、おそらくだが中島には日本神霊とこの世の日本人を繋ぐ巫女の役割がある。日本人の琴線に触れることができる霊的能力がある。結婚しているのかいないのか、結婚せずに何某かの神の霊に帯同しているからこそあの詩があり旋律があり、そして歌声があるのだろう。それは神の霊に身を委ねた巫女の在り様そのものだ。そういう使命を得て生きている者が日本にはたくさんいる。かつて古代ギリシャには神殿娼婦と言われる巫女たちがいた。古代には霊的血統の流れを巫女の実体的宗教儀式によって絶やすことはなかった。しかし現代でそれを行うことは当然なこととして完全な罪であり悪魔儀式だ。同じ行動でもそれぞれの時代霊による動機と使い方で善神に寄与するものか悪神なのかははっきり分かれるところだ。私達が祝福を通して神の血統圏に繋がれるのも、アボジが縁を結んだ女性を戴くという聖酒式の流れの中に霊的相続が生きているわけだが、そんな説明をあからさまに公にすればそれこそカルト呼ばわりされるだろう。