2016年7月12日火曜日

今日の想い 927

「愛しています」「感謝します」、この二つのみ言葉に集約されるというのが御母様の見解だ。御父様はこの私の人生を訓読に費やしても足りないほどのみ言葉を残されている。それも理解できない内容も多くあって、数度訓読したり研究したりすれば一度の人生では当然足りなくなる。私達は先ず原理という知の論理が受け入れられて、その土台の上での関係性であらゆるみ言葉を理解しようとしてきた。それは愛を土台とした情からではなく、知が土台であって我々の愛は真の愛ではなく原理的判断という限られた愛、条件的愛でしかなかったとも言える。私達は本当の愛である真の愛を知らない。真の愛を知らないし真の愛で愛せないから天の父母様と乖離していて摂理は進まない。愛すること、感謝すること、とは言わず「愛しています」「感謝しています」とするのはそこに意志が込められるべきという私達の能動的姿勢を願われて言われた言葉だ。私の存在が肉体という外的殻のみならず、精神的意志存在という霊的存在として立つためには意志する意識を現在に刻み続ける必要がある。それでこそ、神様が捉えられない殻だけの私ではなく神様が相対できる本当の私になれるのだろう。過去意識からくる蕩減的な意味での「感謝します」と、未来意識の摂理的な意味での「愛しています」という両意志が立つことで、私という現在存在が精神的意志存在として立つ。こんな理屈をこねまわすのは私が知に固執するひねくれ者だからであって、御父母様と内的にも霊的にも一つになっている食口であれば、簡単な言葉の真意を当然のこととして受け取るはずだ。ある食口が証してくれたことだが、子供のいない姉夫婦に自分の子供を養子に差し出すと申し出たという。ある者は、たとえ身内であってもみ言葉も聞いていない姉夫婦に養子として祝福二世を差し出すのはどんなものかと思うだろう。でも私はこれこそが氏族復帰だと思った。百のみ言葉を語るより、この犠牲的行動一つで真の愛が姉夫婦に伝わるはずだ。少し変わった食口だけれどもこの食口には頭が上がらないと素直に思った。真の愛が彼の中で生きている。そしてそれを受け入れた相対者も真の愛が生きている。

2016年7月9日土曜日

今日の想い 926

エバは、賢くなるには好ましいと思われたからその実を取って食べた。賢いという言葉は何も知恵に関してだけいう言葉だとは限らない。賢い行動もある。賢い知もあれば意もあり情もある。賢い情は情を分別する。誰彼となく情愛を抱こうとはしない。御父様の言葉を借りれば、愛は与えるけれども情愛は抱かない。人類は終末に向けて論理的思考が発達してきた知の時代を生きてきたからどうしても知の賢さを重要視する。論理の判断に任せようとする。それは私達とて同じで知って納得したいという衝動を抑えられない。しかし知ってどうなるのか、納得してどうなるのかというと、それで自分が変われる訳ではない。エバはルーシェル的実体に情愛を抱いた。そして交わった。その情が、その行動が、賢くなるには好ましいと思えた。しかしその情もその行動も賢いものとは言えなかった。私達は原理のみ言葉を学んで人類が解けなかった多くの謎が解けたと思えた。事実多くの謎は解けたがしかしその真実に対する謎が生じてくる。御父様が再臨主であり御父母様は真の父母だと納得しても今度は御母様の出自の問題が浮上してくる。それだけではなく御父様に浮上する6マリアの問題、御落胤の問題、私達自身に関することで言えば第四アダムの問題や御子女様問題など問題は尽きない。私達は賢くなるには好ましいと思われる知への探求の迷路に嵌っている。それは共産主義者が論理を携えてきたが、その論理を超えた問題に対処できず理想が崩れ去ったと同じ道を歩んでいる。私達は原理主義ではなく心情主義だということを忘れている。賢くなりたいという動機がどこにあるのか、心情を立てようとしているのかそれとも自己中心的喜びが動機なのかを自分の良心に聞いてみるべきだ。知、すなわち原理が権威を掲げる時代は好む好まざるとに関わらず原理判断による裁きの時代となる。落ちた離れた堕落したと蔑む時代に逆戻りする。私達が心情主義であるなら先ず心情を最優先し、それに伴う行動、それから知となる。心情を伴わない行動、心情が背後にない知は共産主義であり原理主義だ。