2016年7月9日土曜日

今日の想い 926

エバは、賢くなるには好ましいと思われたからその実を取って食べた。賢いという言葉は何も知恵に関してだけいう言葉だとは限らない。賢い行動もある。賢い知もあれば意もあり情もある。賢い情は情を分別する。誰彼となく情愛を抱こうとはしない。御父様の言葉を借りれば、愛は与えるけれども情愛は抱かない。人類は終末に向けて論理的思考が発達してきた知の時代を生きてきたからどうしても知の賢さを重要視する。論理の判断に任せようとする。それは私達とて同じで知って納得したいという衝動を抑えられない。しかし知ってどうなるのか、納得してどうなるのかというと、それで自分が変われる訳ではない。エバはルーシェル的実体に情愛を抱いた。そして交わった。その情が、その行動が、賢くなるには好ましいと思えた。しかしその情もその行動も賢いものとは言えなかった。私達は原理のみ言葉を学んで人類が解けなかった多くの謎が解けたと思えた。事実多くの謎は解けたがしかしその真実に対する謎が生じてくる。御父様が再臨主であり御父母様は真の父母だと納得しても今度は御母様の出自の問題が浮上してくる。それだけではなく御父様に浮上する6マリアの問題、御落胤の問題、私達自身に関することで言えば第四アダムの問題や御子女様問題など問題は尽きない。私達は賢くなるには好ましいと思われる知への探求の迷路に嵌っている。それは共産主義者が論理を携えてきたが、その論理を超えた問題に対処できず理想が崩れ去ったと同じ道を歩んでいる。私達は原理主義ではなく心情主義だということを忘れている。賢くなりたいという動機がどこにあるのか、心情を立てようとしているのかそれとも自己中心的喜びが動機なのかを自分の良心に聞いてみるべきだ。知、すなわち原理が権威を掲げる時代は好む好まざるとに関わらず原理判断による裁きの時代となる。落ちた離れた堕落したと蔑む時代に逆戻りする。私達が心情主義であるなら先ず心情を最優先し、それに伴う行動、それから知となる。心情を伴わない行動、心情が背後にない知は共産主義であり原理主義だ。

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