2016年11月15日火曜日

今日の想い 938(新しい信仰)

御母様の独生女宣言を信仰で受け入れるとしても感情ではついていけない、というのが私のまわりの食口の本音だろう。だから私も含めて、御母様がお話される毎に、その事柄に触れられ、いや強調されることに対して耳を背けがちになる。原理やみ言葉に精通される先生方が原理的な説明をされても納得もいかないし、それどころか取って付けたような説明に益々嫌気を募らせる。そこに天の心情、御父母様の心情を私には全く感じられない。御父様にいろいろあるとしても、それを原理で判断してどうだこうだと言うことはなかった。それは原理が入口ではあったが受け入れて歩むことで心情に根差してきたからだ。しかし独生女の説明からは心情に根差した言葉としてはどうも受け取れない。だからといって御母様を否定しようという話ではなく、御母様を受け入れ理解しようとするのに原理的説明によるのではなく心情に根差した理解を探すべきだと思っている。「御母様はあなたの産みの母だ。だから取り敢えず受け取りましょう」と一言言われたほうが原理的説明を並べ立てられるよりよっぽど納得に向かう。私達が御母様に従おうが御子女様にとって代わろうが同じ祝福家庭の群れであることには変わりないと思えるかもしれない。しかし神様から見ればそれは別の異なる血統圏とは捉えられないだろうか。祝福家庭たちが祝福の本質を失うまいとすれば御母様を否定してはありえない。やがて生まれようとする75億人類のそれぞれの霊的生命も御母様を否定してはあり得ない。御子女様は御父母様の直接血統だから御子女様についていく、というのは一見正しく見える。しかしその判断は言ってみれば地上的見地に立った生理学的血統であってそれイコール心情を相続した霊的血統だとは言えない。血が流れていることで生命の営みが続くように愛が流れていることが霊的生命の営みであり、動物と人間の生命の位相が異なるように堕落人間と祝福を受け復帰された人間の位相が異なるのは霊的生命の発生源によるのであって、本然の血統からは心情が湧き溢れているし、本然の血統に繋がった存在は心情を相続できる。確かにグループ派もサンクチュアリも熱い。御母様の言われることに悶々としながら辛うじて信仰を維持している者達よりよっぽど熱い。確かに彼らの魂は今は熱いかもしれないが、しかし霊的に真の父母の血統に繋がっていなければ遠からず心情の枯渇に至るはずだ。御母様の発言の私の理解はこうだ。御父様は紆余曲折あった。第一の御母様が失敗され第二の御母様も失敗した。その他にも公認されていない事実として、誤解されて当然の回り道を取らざるを得なかったいくつかの行動があることも薄々感じている。しかし御母様には紆余曲折はない。一貫して御父様に向いておられた。エバが堕落したという人間からの理解は天使長との関係からだが、神様が判断するのは心情相続の道を断ってしまったことがエバの堕落だ。御母様が一貫して御父様に向いてこられたことが真の父母の完成であり御母様は心情相続の道をそれ故に私達に繋げられた。御母様が聖霊実体であられるのはその一貫性によっている。私達は御母様に向かい続けることで御母様の勝利された一貫性を相続する。御母様が度重なる試練を乗り越えて勝利された一貫性の内容を、私達が相続できるようにというその試金石としての独生女である、、というのが現時点での私の理解だ。そしてそれは正しいか正しくないかと問う原理基準を持つ自分を超えなければ受け入れられない。御父様が言われた、御母様は復帰されたエバという言葉に執着する私を超える必要がある。さらに言えばそれは私の新たな信仰といってもいい。原理という入口から入って実体み言葉(御父様)信仰に繋がったように、清平を入口にした聖霊実体(御母様)信仰だ。それは夜を導いた火の柱と昼を導いた雲の柱の関係だ。もちろんそれは夜の神様、昼の神様とも関連している。今まで為し得なかった環境創造は御母様という聖霊実体の力を受け取ることで地上に実らすことができる。