2026年5月10日日曜日

今日の想い 1467

 過去を辿ってみて、私達は勝利した体験を持ち合わせているだろうか。様々な摂理的戦略がアボジから出されてきたが、それをアボジが勝利と認められ、私達もその勝利の実感を持ったことがあっただろうか。もしあるとすればアボジが立たれた大会の数々だろうけれども、それらが私達の中に勝利的体験として刻まれているのかどうか。アボジ自身は勝利を認識しておられただろうし、それ故に次なる霊的摂理段階へと駒を進められたのだろうが、問題は私達の中にその同じ勝利体験があってそのアボジの想いや認識を共有していったのかどうかだろう。それが無いか曖昧なら、その勝利は私と関係ありと言えるのだろうか。確かに外的な人数も、扱う万物も増えて大きくはなった。それは成功のひとつだろうと言えるかもしれない。しかし、今回解散させられてしまった。当然、成功の外的な意味は消え失せてしまった。少なくとも日本の教会は敗戦して潰されてしまった。日本人の霊性について研究されて、深い考察を持たれる鎌田教授は、常に勝者が政治や経済の権力を手にして敗者は敗者故の個と全体の否定感情から文芸や芸術分野に身を置いてきたと言っている。それは日本の歴史のみならず世界でもそうだが、敗者となった教会食口は国や世界を動かす政治や経済の道は閉ざされ、一端退いて内的確立を図り社会感情を動かせる道へとベクトルを変える以外ないだろう。今のまま突き進んでも、受け入れられる未来など想像もつかない。学会のような党を持てる力にも為り得なかったしこれからは更に活動を自粛させられる。聖和以降、教権の責任ある立場に立つ者がどういう摂理的方向性を取っていたのか、正直なところ私にはただ金集めと豪奢な神殿建設一辺倒の道しか見えなかった。あの建造物群は教権という権威の象徴なのか、或いはあの建設で霊的に突破できる何かがあるのか、摂理的意味のひとつも知らないし教えられていない。御母様が聖霊実体としての歴史的天宙的立場が、権威を立てられることだとはどうしても思えない。

今日の想い 1466

 献身生活は共同生活だ。一つの館に大勢が住み、全体スケジュール中心でパーソナルな部分はほぼほぼ無視されて、ベルトコンベアに乗せられたように毎日が消化されていく。共同生活していればお互いをよく知り合い、情的にも深い付き合いになると思うだろう。しかし私達の実態は全く逆だった。大勢の中にいながらそれぞれは常に孤独だった。私に対して誰も心を開かないし自分から心を開こうとしたこともない。帰国してすぐ大会があって名古屋まで行ったことがある。名古屋は訪米直前まで歩んでいた場所だ。会場の中で当時の中心者から、懐かしい数人に合わせてもらった。私は相手を覚えていたが、しかし相手は私を覚えてはいなかった。辛うじて名前だけは思い出してくれた食口もいたけれども、お互いああそうですかで会話は終わった。日本で共に歩んだ兄弟で、付き合いを続けてきた兄弟は一人もいない。兄弟と呼んだり食口(シック)と呼んだりするけれども、食口どころか同僚ですらなかった。ほぼ前線で朝から夜遅くまで歩んでいたし、帰ったら疲れ果てていて、目をこすりながら食事と反省会を済ませ、後は寝るだけだから当然のことなのかもしれない。戦時の死ぬか生きるかの中で共に歩んだ、戦友と呼ばれる関係性とは全く無縁だった。食口は皆、堕落性を持つ罪人だった。異性との会話どころか同性であっても、冗談を言い合えるような雰囲気すらなかった。「根明のsouka、根暗の教会」だった。地獄を一度通過しての天国への道だということはよく言われたし、そう思って耐えてきたが、私自身日本の教会にそのままいれば通過はおろか地獄のまま抜け出せなかったかもしれない。教会にいる二世達が教会の存続にあれほど一生懸命なのは、私が通過してきた当時の教会とは中身が全く異なるからだろう。

2026年5月5日火曜日

今日の想い 1465

 何を信じ何に従うのか、そしてこれからどうなるのか、暗闇の中に佇み続ける不安だけが魂を満たしていて愛の呼吸ができない。教会が混沌であるように世界も混沌の最中で、そんな状態で青空を眺め暖かな日差しを浴びても、この環境が一体誰の心象を表したものだろうとしか思えない。江藤淳が父の不在(天皇を戴く宗教性の不在)と母の崩壊(日本的倫理と秩序の崩壊)を記したように、教会もアボジの不在、そして三分裂からの解散命令によって、祝福家庭の価値を私達自身が問い、また問われている。今まではそれでよかったはずのイメージとしてのみ捉えていた観念的な全てを、本質的な概念として立たせない以上、私達の信仰基台は崩れていく。アダムエバもアベルカインも、そして万物主管も観念の域を出て概念として捉えてはいない。よって教会は地獄に行くわよという教条主義で教会秩序を保つしかなかった。しかし今教会自体が現実問題として崩壊している。形の上では既に母の崩壊が現実となり、独生女としての御母様という論理で立て直せるかどうかは甚だ疑問だ。神の全体的摂理はどこに向いているのだろうか。また祝福家庭の摂理はどうだろうか。人間個々の救いは教会を通せないとしたらどこに尋ねるべきなのだろうか。何もわからぬまま、何の光も見出せないまま、暗黒の期間を通過しているようだ。化石燃料が途絶えて電気がなくなれば世界の夜は真っ暗だろうけれども、既に私の内面はそれに先立ち荒涼たる暗黒が押し寄せている。

2026年4月14日火曜日

今日の想い 1464

 世間は御父母様のことを教会員を洗脳した悪魔のように思っている。先輩食口の中にも御父母様を、神の摂理に応えられなかった、言葉と行動が相容れない、御家庭は教条に反するものばかり等々と、悪魔とは言わないまでも随分な言い分でもって、人生の大半を摂理に差し出してきた恨みを吐露している。それは先輩祝福家庭にも多く見られ、教会解散にも敢えて口を挟まず関係がなかったかのように黙っている。一部の二世達がどれほど前に立って闘う意志を見せようとも、我関せずの立場で同調することはない。私にはそうみえる。それは御父母様と教会への不信からそうなのだろうか。であればアボジが8割方が離れていくと言われたその言葉が成就したといえるのだろうか。そういう私自身も教会という組織、教会という形にこだわる期間は、後天時代以降終わっていると思っているので敢えて口は出さない。しかし教会や御父母様への不信から声を出さない訳ではなく、教会摂理は現教会が国の圧力で解散されてもしなくても変革し前進すべきだし、御父母様に対する認識を人間的なものから神霊的なものに上げていく必要があるからだ。私は先天時代の教会と献身して捧げてきた歩みが無駄だったとは思わない。堕落人間に口なし、カラスが白と言われれば白と言われる尋常ではない教会空気の中で、信仰の何たるかを知り、信仰は強度を増し、日本の摂理も世界摂理も進んできたと思っている。アボジが遺言として残された天聖経を始めとするみ言葉は道徳教本ではない。よってそこかしこを切り取って人間的判断でおかしいと言えるようなものではない。訓読しながら言葉の背後の神の心情を訪ねて受け取るみ言葉だ。私達も部分部分を切り取られてMCされたと人間的判断で裁きを受けているが、それも致し方なし、祝福家庭であっても人間だからだ。それに神霊に繋がった私達の霊的本質を一般の人間には理解できない。しかし私達が強く認識すべきことは御父母様によって神霊とも授受できる霊的柱を戴いたことだ。天の血統圏に繋がれたといってもいい。であるにもかかわらず、御父母様や御家庭を道義的に批判はしても人間的判断一辺倒で断罪する食口は、御父母様から受けた祝福を蔑ろにしており天の霊的血統圏から外れていると思っている。

2026年4月12日日曜日

今日の想い 1463

これまでは戦火というように戦争は相手方を火の海で焼き尽くして降参させていたが、今はそれが通じない。何億ドルもするミサイルを数万ドルのドローンで破壊するという実に効率の良い(悪い)対戦で、アメリカにすれば阿保らしくてやってられないのが本音だろう。しかしアメリカには通貨(ドル)覇権という大命題がある。今の文明は化石燃料でなり立っている。だからオイルの流通をドル以外で遣り取りされればドル覇権は終わり、莫大な通貨負債を抱え込むアメリカは終わる。だから阿保らしい戦争であっても始めざるを得なかった。初めては見たもののトランプのカードの切り方が悪すぎた。彼自身の判断というより焚きつける者と抑える者の間の力関係がそうさせたのだろう。トランプは大統領令というカードによってイラン攻撃に踏み切ったもののイランは大国だ。それなりの頭脳も戦略も更にアメリカにはないジハード思想がある。当然のこと化石燃料放出のバルブであるホルムズ海峡が使えなくなった。トランプは、アメリカは自国産出のオイルで充分間に合うので米経済に支障はないかのような言い方をしているが、大動脈を寸断しておいてアメリカがそれに寸時で変えられる大動脈を施設できるはずもない。インフレで米市民がどれだけ苦しいかを見ればわかるように、オイルは産出できても日常製品は産出できない国なのでオイル価格上昇の煽りを喰う輸入に頼っていて生活は苦しい。もはや国は世界の国々と手を結ばなければ立ち行かなくなっている。TACOる(尻込みする)とは言い得て妙で、トランプはタコのように自分の足元を知らないうちに喰って自国に支障をもたらした。アメリカのやらかしでこれから世界は燃料が足りない生活状況に突入していく。日本にはすぐにも連日猛暑の夏が襲ってくる。インフレは更に激しさを増し物流は滞る。そしてドル覇権世界は終わりを迎える。

2026年4月2日木曜日

今日の想い 1462

 花が咲いて、そして散る。形が為されて、そして壊される。人が生まれて、そして逝く。逝く人を見送る人も、また逝く人。それは千年も万年も無数に繰り返されてきたことであり、今もそして未来永劫繰り返される。かつては生まれて逝くその狭間でそれらの意味を問うても答えはなかった。だから意味を問うこと自体むなしく、意味を問えば問うほどに迷宮に入り込んで心を病む。心を病むのは霊達の孤独と根無し草による不安からくる。私はどうにも悩みすぎて心を病んだことがある。この世には悩む人と悩まない人がいる。悩まない人は今生が天の意識圏外にある者、すなわち終末に至らず悪く言うと霊も素通りする見捨てられたアブク存在に過ぎない。私は心を病むほどに悩んだけれども、奇跡的にも原理に出会い御父母様にまみえて深い絶望的悩みから解放された。私達は歴史の狭間で生きてきた数多の人間達が得られなかった答えを手にしている。そう、人類歴史を通して夥しい生死を繰り返しながら求めても求めても得られなかった、その答えとしての真理を手にしている。二世達にこの霊的歓喜がわかるだろうか。散る意味がわかり、壊される意味がわかり、逝く意味がわかる。そうなると地上を去りたくないというのは生きる欲としての執着でしかない。教会も解散されたのであれば、もはや潔く、新たに願われる摂理に目を向けるべきだろう。この期に及んで更なる解散に対する反旗を翻したところで、私は逆に摂理に反することになりはしないかと危惧する。解散命令がどれほど違法で教会存続がどれほど正しいかを今の時点で叫んでも世間は聞く耳を持たないし、それを訴えたいのであればこれからの私達の行動で認めてもらうしかない。神様は私を捨てないという確信があるなら敢えて教会にしがみ付く必要はない。摂理は次なるステージに展開され、私なのか組織体としての私達であるべきなのかは別途考えるとして新たな摂理に応えていくことに全集中すべきだ。

2026年3月26日木曜日

今日の想い 1461

 一世は野宿してでも飲まず食わずでも、そして少々の嘘はったりを嚙ましてでもみ旨に生きる野太さが取り柄といえば取り柄だったはずが、二世への世代交代によって教会食口の在り様はよく言えば灰汁がなくなった、悪く言えば純粋培養で優しい人達だけの集まりになったということだろうか。純粋な教会二世達を見ていると、心優しいその性品を失って欲しくないと思うと同時に、そんなに心優しくてこの藪だらけ、敵だらけの騙し騙されの世間をどうやって生きていくのだろうかと心配になる。彼等は天国では生活できてもこの地獄の地上世界では生きていけない。二世も人それぞれだろうけれども、少なくとも教会に繋がっている二世達がこの状況で変わらないとすればこの世に生を受けるにまだ早すぎたことになる。そうなると彼等を内的霊的に育んだ、純粋な彼等が神様とイメージする神霊は、この解散命令を受けて尚、霊的中心足りうる神霊なのかどうかを自らの良心に問うべきだ。ハナ二ムであって一なる神様を否定するのかと怒鳴られそうだが、はなから誰一人として何らの差異もない全く共通の神様のイメージを持ち合わせている訳ではない。私のイメージする神様とあなたのイメージする神様が異なるのは、同じ原理を学び同じ真の父母に侍る食口であったとしても異なっていて当然だ。二世にとってはこの解散命令で内的霊的羅針盤である良心(良神)に、信仰とは何か、教会とは何か、等々今まで当然のこととしていた観を先ず尋ねて欲しい。そしてその羅針盤で新しい霊的大地に向かい希望を持って、強く雄々しく船出して欲しい。17世紀、英国の宗教弾圧を逃れて新天地に船出した清教徒達のように、、。具体的に日本を離れろと言っている訳ではない。以前記したようにもちろんそれもひとつではあるが、自らの観、それは人生観から始まり信仰観や神観すべての観を立て直すところから始まる。

2026年3月23日月曜日

今日の想い 1460

 おかしく思うかもしれないが、一人残った母に新しい仏壇の購入を勧めた。田舎にある祖父が供えた仏壇は色も褪せ艶もなくなり、それでも移った家に移動させようとも思ったが、大きすぎて置き場所がない。無いということもないが部屋も小さくてどこに置くにしても合わない。小さな家には不釣り合いだ。しばらく御本尊だけを座り机を台にして置いてお参りしていたが、父が亡くなったのを機に、少し小さめで床の間に収まるものを迎え入れようと説得し、展示会場に連れて行った。小ぶりなものでも結構値が張る。湯呑入れのような最小のものから襖二枚ほどもあるものまで様々だった。一つ一つ見て回りながら値札を見て驚いてはいたが、「これが良さげだ」と展示会場の隅にある展示物の前で立ち止まった。光沢のない実に質素な箱だけの代物だった。安いのは安いがそれでも20数万の値札が付いていた。母にすればそれが出せる精一杯だったからそれを選んだのだろう。「お金のことは心配せんで気に入ったものにしよう。足りない分は出すから、、。」そう言って艶の或るそれなりの仏壇を見つけて指さした。母の顔色を窺うと気に入ったのはすぐに分かった。値段は倍で少し苦しいが生活費を削ってでも母の喜びには代えられないと思った。母としては見るだけだと思って勧められるままに来たのだろうが、契約を終えて帰る車の中で、「これも縁じゃけえ」と遠い耳に口を寄せて伝えると、母は納得したように嬉しそうにしていた。教会には献身もし、ビジネスでは誰よりも献金してきた。帰るまで親の生活費を援助したこともないし、誕生日には子供騙しのお菓子で済ませていた。ある程度まとまったお金でプレゼントした最初で、更に最後になるかも知れないという買い与えたものが仏壇か、、と複雑な気持ちになった。

2026年3月13日金曜日

今日の想い 1459

 またしても頑張れ頑張れか、。何を頑張ればいいんだろう。御母様の言葉ですら頑張れの一言らしい。御母様ご自身は狭い拘置所内でどう頑張っておられるのだろう。自分はどう捉えたらいいのか。皆はどう捉えるのだろうか。かつて胸締め付けられるほどに御父母様に向いていた私の想いは、遠い昔にあったものとだけ記憶していて、当時の熱い想いそのままを胸中に思い描くことすら今は難しくなっている。原理で信仰に至り、その信仰によって相思に至り、その想いが心情に至るはずなのに、アボジの現実、そして御母様の現実や教会の現実が心情へ向かう翼を羽交い絞めしている。そう捉えてはいるが、はたして私の信仰を阻もうとするこの暗雲は本当のところは何なんだろうか。現実が大きく見えるということは一方の霊的事実が現実で遮られていることになる。最近は妙に体調が優れず、熱もないのに悪寒のような感覚が走り、微妙な震えを背中や手の先に覚える。未だ往生できない父のせいにして自分を偽っていたけれども、流石に四十九日法要を済ませてその言い訳は当たらない。今の信仰環境の現実、私の摂理観を見届ける心眼の曇り、それと体調は明らかに作用し影響し合っている。おそらく食口の多くは、御母様の願い、御母様の苦労を想いながら解放を祈願することに集中しているだろう。しかし御父母様の子女として、すなわち肉的な子供ではなく霊的子女としての私達の本分は、神の願いと心情を相続して摂理を担うことにある。食口全体としてその意識が欠けているように思えてならない。勝共の渡辺さんの声を枯らしての訴えを、スクリーン越しに見ながら嬉しくて涙が流れてきた。天宙復帰の神の意志が彼に働いているし、復帰精神の火は消えていないし、神は私達を捨ててもおられないと思った。

2026年3月5日木曜日

今日の想い 1458

 今回の結果に至ったのには数えきれないほどの原因があるだろう。しかし根源の一つは、日本という国自体が信教の自由を受け入れない社会であり、民主国家の建前だけ立てて信教の自由という概念すら曖昧にして深入りさせない村社会だということ。日本は国民を愛で主管するのではなく飼い慣らしの国であって、当然自由の概念などもともとない。本来がそういう社会であるから、人々に波を起こすような目立った行動には目敏く、確実に制裁の度合いを増していく。記者会見であろうがインタビューであろうが、また普通の一般人との対話であろうが、彼等の多くは信仰を持つという感覚すら理解できず信仰の胡散臭さで鼻を押さえながら対している。信教者側がどれほど差別感情があるのを彼等に感じるとしても、しかしそれが日本人全般であって、日本の空気感でそう教育されてもいる。高裁は解散しても信教の自由を否定するものではないとしているが、教会食口は今までも、これからは今まで以上に、内外両面で普通の一般的日本人から差別的レッテルを貼られて、想いを声にする自由すら無くなっていくだろう。アボジはここまでの事態になることを予見されていただろうか。御母様はどうだろうか。アボジのみ言葉を改変させてまで権威を立てる必要があったのだろうか。清平の豪奢な建造群は日本食口をここまで追い遣って献金させても必要だったのだろうか。御母様も常に日本の犯した罪の対価を求められたけれども、結局御母様の子女である日本食口に全てのしわ寄せが負わされてしまった。それも当然だと思われているだろうか。一世は自らの意志でこの道を選んだのだから如何なる仕打ちも甘受して当然だとしても、しかし二世は違う。信仰に始まる親の観で育った彼等の居場所は無くなってしまった。それでも未だに教会本部や御母様の彼等にかけられる言葉は見当たらない。

2026年3月2日月曜日

今日の想い 1457

 黒の背景に白抜きの大文字が紙面に踊る。「米、イスラエル、イラン攻撃」「ハメネイ氏を殺害」。紙面を凝視しながら、何か未だに悪寒がして風邪が治りきらないような、そんな感覚を覚える。自分のなかでどう処理していいものか見当もつかない。摂理、また摂理で走ってきた私達の歩んだ意味はどこにあるのだろうか。本当に、些細ではあっても地上天国建設の柱の一部でもなりえたのだろうか。天宙復帰と大風呂敷を広げながら、結局は私達の自己満足でしかなかったのか。解散命令。ウクライナ戦争からの今度はイラン戦争。御母様の拘留。台湾有事への足音。私達が描いていた理想のイメージは悉く打ち砕かれ、無力に落とされるどころか反社会的団体として世間に蔑まされながら生きることを強いられる。大患難時代は世界の民の代表として、負わなければならない統一食口達の患難としか思えない。棚からぼた餅なのか天から降ってくるマナなのか、家庭の幸せばかりを強調する信仰観からは私達の復帰への意志を差し出せず、立ち止まったまま遠い空を見上げて天からの祝福のみを戴こうとしている。いつから統一食口は乞食の群れになり下がったのだろうか。エレミアの哀歌に記された嘆きのように、バビロンの兵がユダに侵攻し、エルサレムの神殿を破壊されて捕囚の身になり、エレミアの嘆きの言葉でやっと事の重大さがイスラエルの民達の身に染みたように、私達も嘆きの谷底を彷徨う路程を通過しなければ、本当の悔い改めを学ぶことはないのだろうか。

今日の想い 1456

信仰とは両刃の剣だ。彼が犯行に至った経緯に触れてみると、彼自身も含めて全てを破壊する意志に人生を捧げざるを得なかった家庭状況と経緯をみることができる。私がマインドコントロールされていると言われればそれは違うだろうとは思うが、妄信しやすいかどうかを問われれば、信仰者としてそうなりやすいのは頷かざるを得ない。私には彼の母親は典型的な妄信によるもののようにみえるが、本人にしてみれば妄信だと認めるまでは信仰、それも篤い信仰であって、おそらく多くの食口も妄信とは認めないだろう。八割方彼自身の問題であって、母の信仰行動に今回の問題があるとは食口の誰も言わない。日本の信仰はアベルを通して受け取る神様の願いに絶対服従で応えることだ。全てを捧げるように言われて、無いものは出せないにしてもあれば出すのは当然だと思っている。そして彼の母親はあったので出した。捧げることでどうなるかという家族の明日を心配するより、彼女にすれば従って捧げることが絶対服従だった。そのような事情と経緯を辿った食口は彼女だけではなく、献金路程に於いてそれなりの資産を持つ多くの既成夫人がそうだったはずだ。絶対服従が間違いだったのか、アベルの指示が間違いだったのか、献金摂理そのものが間違いだったのか、それともアボジの要求が間違いだったのか。今更そんな問いを立てたところでどうにかなるものではない。しかし、私達の信仰観、信仰とは何かを問わざるを得ない状況であることは間違いないだろう。信仰に組織的団体信仰なるものはない。信仰はあくまで私と神との関係であって、神の名を語る誰に対しても神の代身を認めるべきではない。信仰が妄信に変る一線を把握できるかどうかは信仰の内的動機にも依っている。寄りかかるものを求めることがどこまでも変わらず信仰動機であるならそれは真の信仰には至らない。神は親だから私の幸せを与え、家庭の幸せと健康を与え、霊界の喜ばしい環境をも与えてくれる? あり得ない。全くあり得ない。親なる神は私を神の子女としてどんな状況でも雄々しく強く闘い勝利して独り立ちすることを願っている。アボジの私達への願いは第二の真の父母になることであって、絶対信仰、絶対服従、絶対愛は私の良心に対する概念、生殖器に対する概念であって、人間アボジでもなければ人間御母様でもない。

2026年2月23日月曜日

今日の想い 1455

 好き放題喚きながらここまで来て、敢えて言うのもおかしいが、日本は日本の良心を是非に見せて欲しい。文部省であろうが司法であろうが、解散命令が度を越した仕打ちであることは、携わり調べた者当人がよくよくわかっているはずだ。それなのに良心に蓋をしたままで今までの流れにそのまま流されるのであれば、日本を背負う立場の彼等は霊的には日本を裏切ることになり、彼等こそが反日として消えない霊的刻印を押されることになる。それどころか日本そのものが宗教という精神性を蔑ろにし、霊性の立たない異邦サタン国家として他国から見做されることになる。日本が神側なのかサタン側につくのかの分水嶺がこの3月4日、高裁判決の日だ。確かに示された日本の摂理は日本の食口を使い世界摂理に貢献する一辺倒だったし、その為に日本食口は疲れ果て、更に反社会的団体だと焼き印まで押されてしまった。ここで翻すとなると司法も相当の決意と覚悟を要するだろう。日本は八百万の神だが、かといって国民がバラバラなのではなく、それなりに中心的な国家霊は立っているはずだ。だから日本の体を為している。日本食口が談判祈祷をするとすればこの日本の中心で大柱である日本民族霊という神霊だ。私達はその時に悔い改めとして、余りにも日本に対する意識も祈りも足らず浮いた存在であったことは素直に反省すべきだ。日本人としてこの日本の風土で育ち日本の援助を受けて学び、今尚多大な恩恵を戴いている。であるのに、その認識と感謝が足りなさ過ぎた。その身勝手さの独善性は裁かれて当然だとは思うが、それが解散命令という死刑宣告で精神を抹殺することが、日本の未来に対してどういう意味を持つのか見通せない神霊ではないはずだ。だから祈祷しながら神霊にそこを是非ついて欲しい。

2026年2月19日木曜日

今日の想い 1454

教会も流石に変革を迫られることになる。取り敢えず相当数の職員に退いてもらわなければ、信仰の拠り所である教会の一つすらなくなってしまう。しかしそれすら当面を凌ぐだけであって、生き延びる道の糸口すらつかめないだろう。解散命令は文字通りそうで、教会の名義すら奪われてしまうのだからほぼ何もできないと思った方がいい。反社会的な立場で公にできることなど一つもないし、個人や会社の名義と名目で集会を催すとしても、人知れず山奥でこっそりとやるしかないだろう。そんな隠れ食口であり続けることがいつまでも可能だとは到底思えない。そうなると日本を出て集まるか活動拠点を海外に置くかしか方策はない。本部教会がしっかりしていれば対策方針が出るだろうし伝えられるはずだが、当の屋台骨自体がどうなるかわからないとなると日本食口への対応など出来ようはずがない。こうなると教会長は牧会能力などさして意味を為さず、それ以上にモーセの覚悟と決意で出エジプトの陣頭指揮を執る必要がある。幸運にも私達の教会は世界にある。日本さえ飛び出す覚悟があれば生き残れる道は多分にある。生き残れるどころか日本人で食口であれば世界を舞台に成功できる。世界に出れば日本社会がどれ程低いガラス天井かが理解できるだろう。一世は今更感があるが、頭も柔らかく若い二世や三世は世界に飛び出して成功する機会を是非とも掴んで欲しい。危機をチャンスに変える絶好の機会だ。解散命令が教会食口の次元上昇の触媒となるはずだ。

2026年2月17日火曜日

今日の想い 1453

数代前から世話になっているお寺さんに来てもらい、やっと法要を済ませた。お寺さんも郷土は同じだが、過疎の地では生活もままならず、寺だけはそのまま残し市内に出ておられ、檀家の法事に東西南北走っておられる。当然寺の或る田舎にもいかれるが、もといた住民の殆どは市内と郊外に移り住んでいて、そこここの施設で法事を行う。今回、お経の後の法話は他力本願の話だった。余すことなく全ての人を幸せにしたいと、存在そのものがその願いに貫かれているのが阿弥陀如来だということ。人間の幸せは破闇満願、暗い心である無明の闇を打破して本質的幸福を得ることだが、その方法として他力本願、阿弥陀如来に帰依し、闇を打破して幸せになれること。帰依する方法として無心に南無阿弥陀仏(阿弥陀如来に帰依します)と念じ続けること。と、いったところだろうか。しかし私のように論理でもって阿弥陀如来の実在を差し出してもらえなければ、何とも掴みどころがないという者にとっては、帰依の入り口の段差すら超えようとはしないだろう。法話を聞きながら、こんな思いが出てくる時点で、いかにも自分には悟っているかのような気分があるなあと思われてため息が出てしまった。他力本願を人任せで何もしない批判として用いられることもあるが、己の弱さをつくづく実感した者であれば阿弥陀如来に全面的に帰依する他力本願は救いだ。もし原理を聞かずに人生の辛酸を舐めて後、法話の一つでも受け取っていたなら、原理の道を行かずに大人しく南無阿弥陀仏と念ずる私になっていただろう。そう思うと自分の意志でこの道に歩むことを決めたようでも、私を私とする中心的自我のみならず、それを支える様々な霊の意志が私の人生に働いている。どれほど反社のレッテルを貼られ、教会に言及することすら親族に嫌がられても、だからといって自分の歩みが間違っていたとは露だに思っていない自分は、揺らぐことのない多くの霊の協助で支えられている。

2026年2月15日日曜日

今日の想い 1452

寝ようと布団に入っても寝付けない。眠りについたと思っても急に交感神経が全開するのか、伏したまま起き上がらなければ不快に苛まされたままになる。ここひと月そんな状態が続いている。睡眠導入剤を出してもらおうかと思うが、血圧とアレルギーの薬を飲み続けているのでこれ以上増やしたくないし、飲んでみたとて朝までぐっすり眠れるのかどうかも不安だ。先日離れにいる母が、悪寒があるような気がして早めに床に就いているというので、逝った父がまだこの辺に居て寄りかかっているのではと冗談交じりに言ったものの、眠れない自分もひょっとしたらと思ってしまった。確かに不安が募ると眠れないことは多々あったが、眠れないこと自体に悩んだことは一度もなかった。しかし葬儀の後からずっとどうも具合が悪い。父は症状がどうであろうが退院して家に帰りたかったのはそうで、面会の度毎に帰りたいと口にしていたものの、それを叶えてやれなかった。子としてはそうしてやりたいのはやまやまだったが、母の気が重くなって両方具合が悪くなっても、と思ってどうしても決意できなかった。悔やむと言えば悔やまれるのだが、それは致し方なかったことだ。明日は父の四十九日の法事を行う。死んだら無になると疑わなかった父でも、迷わずに死者として当然の道筋を踏んでくれることを祈るばかりだ。

2026年2月10日火曜日

今日の想い 1451

 私達は眠る時間を割いてでも祈祷してきた。祈祷によって自らを分別し、祈祷によって自らを納得させ、祈祷によって願われる要求への意志を差し出してきた。祈りが私の祈りとなる訓練を経て初めて、祈りが私を創造するツールになるのだから、祈祷の強要であったとしても無駄ではなかっただろう。時間的に相当量な無駄を要してしまったと思っても、その期間があったからこそ今の私が存在している。今日の私は昨日の私を踏み台にしており、その毎日の繰り返しの上での今の私だ。もし随分否定的で悲観的な事ばかりを述べ連ねるのかと問われたら、過去を否定し切り捨てているのではなく、過去を振り返りながら新しい私を創造していると伝えたい。大層な言い方だとしても、そういう自分でこそ生きる意味があり霊的生命を戴いた御父母様へ向き合う真摯な姿勢だと信じている。過去を振り返り、その歩みをどう判断するかは他人でもないし食口でも外的アベルでもなく自分自身だからだ。私達のそれぞれがそれぞれの霊界を背負っていると言われるように、私が住まう霊界という環境は私が創造している。み言葉であろうが何だろうが誰かに正解を求めてもそれは仮の宿でしかなく、私が未だ霊的に立っていないと言うことだ。み言葉であろうが、と述べたがみ言葉であれば尚更他の誰かに正解や意味を求めるべきではない。み言葉は霊的な言葉であるから私の正解は私の中にしかない。それが私が私の霊界を背負っていることの意味だ。食口が霊界に旅発てば楽園のような同じ空間に住まうように思っているかも知れないが、何某かの集う場があるとしても私の家はその中にはない。あれほどに祈祷に時間を割いてきたにもかかわらず、霊的無知の理解すら覚束ないのは、神霊と対話する祈祷をせずに、受け売りの神観、霊界観、信仰観、人生観という借り物、すなわち偽物を祈祷の基台にしているからだ。教会はいくつかの分派に分かれているが、一方が一方を批判するのは自分の観が正しく相手の観が間違っていると信じているからだが、しかし皆が皆の全てに共通する観など先ずあり得ない。原罪あるなしの話でつばぜり合いになるとしても、原罪という何層にも深入りする霊的事柄に対して食口に共通するとされる観で判断できるものでもないし、それどころかみ言葉のあちこちを切り取ってああだこうだと言い募るのは原理坊やの御遊びに過ぎない。

2026年2月2日月曜日

今日の想い 1450

 2026年は大転換期になる。人間社会が大転換する。まさに上の者が下になり、下の者が上になる。ドル通貨が基軸となってドルを持つ者、すなわちFRBを代表とする一握りの者達が経済覇権を掴んでいたが、ついに通貨バブルの限界に来てしまった。人間社会は経済基盤の上での活動だから、経済金融システムの崩壊が社会の大転換にならざるを得ない。早ければこの夏あたりだろうか。遅くとも年内にそれは起こる。いや既に激震の兆候はいたるところで起こっているのだが、煮え湯カエルの状態で飛び出す機会を捉えられずに、同じように預金をし、同じように株式を始めとする債券投資をしている。一月の末に金銀は数値上暴落した。金銀と言っても先物やETF込みでの売買であって、その売買は金銀を指標にした謂わばペーパーゴールドと呼ばれて債券と変わりはない。実物を持っているのとは全く異なる。だから金銀の本当の価値はドル数値では表せない。リーマン危機以降QEと呼ばれる莫大な緩和策で、潰れて当然の銀行業界に補填し続けてきたし、コロナ危機ではこれまた莫大な短期国債発行による融資を全ての企業に流してきた。それらの累計借金が38兆ドルに昇っている。短期だから年内の償還も8兆ドルに昇り米政府はその返済に頭を抱えている。もはやこれ以上国債を発行しても誰も買わないし買えない。国債を売らずに市場にドルをばら撒くと通貨価値は途端に下がり極度のインフレに突入する。ドルがトルコリラの運命を後追いすることになる。リラは一国家に限定されてもドルは世界に影響を波及させる。さあどうなるか。この世界規模のバブル崩壊とそれに続く大混乱を年内に控えている。これが実質的なD-DAYとなるかどうか。大転換、グレートリセットするとしても次なるシステムを模索し安定するまで何年を要するだろう。その暗闇の期間を生き延び、先頭に立って次なる社会創造に貢献できるのは祝福家庭の群れしかいないと、私は踏んでいる。

2026年2月1日日曜日

今日の想い 1449

 原理を理解するのは知の力に依っている。知の力、すなわちルーシェルの力でもって原理を理解しているという、この意味することはルーシェルを超えることができないと言うことだ。ルーシェルの誘惑によって人間は堕落したというこの事実を、どこまでも知の理解に委ねる限りは堕落の本質をとらえることはできない。孫悟空がどこまで飛んで行ってもお釈迦様の手の内だったというように、ルーシェルの手の内から解放されないのが堕落人間だ。ではどうすれば人間は知を超えた理解を受け取ることができるだろうか。私達は原理を土台にして想像を展開しながら、復帰された人間のイメージやら社会のイメージがどんなものか、復帰され創造本然の理想社会に対する様々なイメージを中心者やアベルの言葉を通して植え付けられたものの、時を経るごとに突き付けられる現実によってことごとく裏切られてきた。先ず原罪がないとされる祝福二世に対するイメージが壊されるところから始まり、御子女様のイメージの崩壊であり、それは御父母様のイメージまでも壊さざるを得ないところまで行きつく。そこで、御父母様の勝利圏は偽りで、よって原罪は残り続けると結論づけるのか、はたまた私達の原罪から始まる理解の方が違っていて、よってその理解で測ろうとするから勝利されていないように錯覚してしまったと学ぶのか、どちらかに舵をきることになる。私達は知の力のみに頼る理解ではなく、知を含めた魂(知情意)全体で探求し理解する力が必要だろう。しかし魂全体でもっても理解に及ばない、魂の位相を超えた叡智であるとか心情による理解は、高位相の神霊から受け取るもので、それは神霊に相対する自分を用意する宗教的敬虔な態度を信仰路程でどれ程学んだかに依っている。言葉で述べるのは簡単だが、ここでも知の力、ルーシェルの力に依らざるを得ないという時点で限界はあるのだが、今はルーシェル自体が屈服されているので言葉で論理的に述べるのも決して間違いではなく、神霊に向かう一助けにはなる。

2026年1月28日水曜日

今日の想い 1448

人間は魂の存在だと記した。魂は霊と肉の一体圏にある。だから霊も魂の親の位置にあり、肉も魂の一方の親の位置にある。人間は確かに堕落し、霊的無知に陥ってしまったわけで、復帰の途上でより内的な方向、より霊的な方向にベクトルを取らざるを得ないとしても、しかし一方の肉の親を否定して生きることができる訳ではない。アボジが中庸という言葉を残しておられるように、どちらか一方に偏るのではなくバランスを取ってこそ霊肉一体圏に立てる。韓国の責任者が肉心一筋で欲に走っているように見えるとしても、しかし彼等は公的責任を全うするに自らの熱情に火をつけるための欲を否定しなかった。日本の食口に対して私心も私物も持たず一切を捧げるとしても、それはそれで歪な魂、あの世の平安だけを求め厭世気分に浸る乾いた魂になってしまう。偏った魂の在り様の総体が日本の教会だとして、今の向き合わざるを得ない状況に置かれているのではないか。最大限に慎ましく暮らせる分だけを生活にあて、あとは献金して当然だという空気感は確かに皆に覆っていて、財を築くとなると他の食口から白い目で見られるだろう。しかし位置が人間をつくるように、万物主管圏の深さと広さがこの世に意見できる人間をつくっていくのは間違いない。正しく自分の欲を育てていくことが地に足を付ける盤石なる地上基盤となる。先天時代は蕩減時代であったから献身もし、全てを捧げて走ってきたけれども、後天時代は穴埋めを終えての創造時代だから、地上世界というカナンの地で乳と蜜をしっかり取りながら魂を瑞々しく成長させていくべきだ。それなりの名声や財も持たずには、氏族の誰も見向きもしない。もし私達がユダヤ人のように、知識人としても財界人としても影響力を持った多くの群れとなっていれば、世間も国もこんな虫けらのような扱いをするはずがない。この世の常として地上の権威には誰もが頭を下げる。選挙運動の手足になってくれるぐらいの影響力では全く話にならないということだ。

2026年1月27日火曜日

今日の想い 1447

 春を正しく迎えることができるのは、冬の間に種まきする種を用意できたかどうかだ。新たな種も準備せずに春を迎えても、陽気に酔うばかりで秋の実りを収穫することは到底できない。食口にとっては今がまさしく極寒の冬であって、にもかかわらず時間が経過すれば当然のように春が来て、天からマナの恩恵でも降ってくるかのように期待している。御目出度いとしか言いようがない。世間や政府を責めて愚痴っていても神様すら聞く耳持たずだろうし意味がない。酒で酔って逃げているようなものだ。知恵ある食口は切実なこの冬の最中に何を用意するかを祈り考えている。もはやアベルからの指示などあり得ないし、あったとしても的外れなものでしかないだろう。全てを自分でどうするかを決める。どう信仰を立てるか、どう生活するか、親なら子女をどう教育するか、摂理をどう捉えどう関係性を持つか、すべて自分でどうするかを決めざるを得ない。しかしこれこそが天の祝福であり、日本食口にとっては自我の確立という真の個性完成への出発となる。しかし現実問題として解散命令が下った時、先ず多くの教会職員の先行きをどうするかだろう。世間の受け入れ具合にもよるが、できるなら日本から一端出て海外で歩んで欲しい。国によるだろうけれども、現地食口に汗を流してもらって宗教迫害によるビザ取得の可能性を模索すべく交渉してもらうべきだ。今回の選挙で与党が過半数を取り、高市政権が盤石なものとなると教会に対して善処する新たな動きも出るという者もいるが、日本社会はそれほど柔軟だとは思えない。楽観的観測に乗るのではなくて、何事も厳しめに捉えて先手先手と駒を進めるべきだ。家族の生命をかけて脱北するほどの覚悟を学べば何だってできるはずだ。覚悟と意志が道を開く。

今日の想い 1446

日本が韓国を理解できないように、おそらく食口であってもその実態を知ることになると、本部の教会の中心で起こっていることは受け入れられないだろう。解散命令がでるほどに追い詰めて責めて責められて献金してきたのに、その献金がどう消費されてきたか。最悪、摂理として広げた事業が回転せず、そのマイナス分の維持費に使われてきたぐらいにしか理解していないだろう。韓国人の魂は日本人のそれとはまったく異なっている。人生の捉え方から異なっている。学ぶみ言葉は同じでも、その行動は真逆だったりする。簡単に述べるなら、自我の明確な韓国人と自我の曖昧な日本人ということになる。公的であろうが私的であろうが、自分の意見や意志を明確に示し、それにそって行動する韓国人に対して、明確な意見も意志も曖昧で、声の大きな者などの従う誰かを常に探していて、それに合わせて行動する日本人という具合だ。韓国人は食口であっても、責任ある位置にあればそれに見合う環境や報酬を得るのは当然で、それがないなら責任を全うできないとも思っているはずだ。安っぽい出で立ちで、相手に合わせる趣味の話もできずにビジネス交渉もできないし、トップ外交もできない。日本の食口から見ればただの私欲で分捕っているようにしか見えないが、彼等には彼等の言い分がある。実際己の欲を強くし、それを動機にして這いつくばってでも成り上がってきた多くの僑胞達が日本にも世界にもいる。問題は、余りにも多額のマネーが随時日本から送られてきたことだ。また自分で主管したこともない額を容易に手にすることになったことだ。自分で汗水垂らして稼いだお金と、転がり込んだお金とは意味合いがまるっきり異なる。彼等にとって日本からの献金は悪銭でしかなく、当然身に付かず流れてしまう。私達は万物主管という原理のみ言葉がありながら、お金をモノとしてしか見ていなかった。日本で集めたお金は、命と愛を引き換えに我が子を取り戻したように受け取ったお金だったのかどうか。子供を差し出すように献金し送金したのかどうか。その想いあればどう使われているかに関心が行くのは当然だし、口を挟むなと言われれば止めることもあり得ただろう。以前にも記したことがあるが、韓国の問題も日本の解散命令問題も、万物の反乱としての一面は確実にある。万物主管に対して、本質に近い概念を得た食口に会ったことは一度もない。

2026年1月25日日曜日

今日の想い 1445

 ロシアによるウクライナ侵攻から始まったウクライナ戦争。この2024年2月24日以前と以降とでは何が違うか。世界秩序に於いて根本的に変わってしまったことがある。以前はドル基軸世界であったものがウクライナ戦争以降、正確にはバイデンによってロシアの外貨口座を凍結して以降、BRICKSを始めとする多くの国はドルへの信頼を失いそれぞれの中央銀行は買い続けていたドル債権を売却し金を購入するようになった。金が世界通貨になり得るかどうかは別として、日毎に信用を失いつつあるドルに代わる取り敢えずの資産として金へと向かっていることは確実だ。今西側諸国はどの国も借金漬けだ。アメリカの借金だけでも38兆ドルに昇る。借金で回していた国家経済が限界に来ていたのに、極めつけがロシア外貨口座の凍結で完全にドルの信頼を失ってしまった。トランプ政権は前政権が仕出かしたこの事実をよくわかっている。だからトランプは何とかドル覇権を維持しよう回復しようと躍起になり、突拍子もないように見える政策をどんどん進めている。各国への関税、何千万ドルものみかじめ料、そしてベネズエラへの急襲とグリーンランド領の分捕りへと続く。ドル担保にできるエネルギー源の確保がないと通貨覇権は奪われてしまうからだ。金は既に5000ドル/OZの大台に届こうとしている。ドルで価値判断をすることに慣れてきたから金が高くなったように見えるけれども、実際は量る単位のドルの価値がなくなったものだから金が高くなったように見えるだけだ。金保有者は金をいつ売って利益確定しようかと躍起になっているが、それ自体がドルを価値単位にしていることの判断に他ならない。今の中央銀行は確保した金をドルに換えようとは思っていない。米財務長官は2027年に入ったら2兆ドルのステーブルコイン、所謂デジタル通貨の発行を約束している。金融緩和策で刷り上げ過ぎた通貨紙幣によるインフレが止まらないが、実は政府から見るとインフレで借金が薄められていく。インフレ率が高くなればなるほど国の借金は帳消しにはならずとも薄められて楽になる。デジタル通貨発行は新たな国債を担保にする為に形を変えた金融緩和策だ。トランプ政権はドル覇権を維持するために必死だ。

今日の想い 1444

久々に妻と喧嘩した。人生の殆どを妻と共に歩んできて、一度か二度しかしたことはない。派手であっても乾いたものであれば後に残ることはないのだろう。しかしうちは違う。一度始まるとどこまでも長雨のように尾を引くことは分かっているので、喧嘩したくてもできない。天の祝福だと思えばこそ踏ん張ってきたのだが、時間が解決できないものもある。この年になって思いのたけをぶつけるとは思いもしなかった。溜息をつく部分はあっても敢えてそこをえぐることはお互いにしなかった。私にすれば一体放った言葉の何が彼女に引っかかり、怒りの導線に火をつけたのかさっぱりわからない。それがひと月も前の話であって、未だに燻るものがあるらしく、その言葉で傷ついて病になったとまで言い放つので流石に声を荒げるしかなかった。その言葉に嘘偽りがないとするなら、彼女は大病して透析を始め身体的な多くを負っているけれども、今の今までひとりで病気になりひとりで闘いひとりで生きていると思ってきた節があるということだ。夫婦として家族として同じように、いやそれ以上に、自分としては彼女以上に思い悩み闘ってきたつもりが、その自覚はどうもないらしい。それとも私自身に自覚が足りなかったということだろうか。もう終活を始めてもいい頃なのに、この時期になって夫婦とは何だ、家族とは何だという課題を今一度差し出されるとはどういうことだろう。夫婦であっても結局は東の果ての男と西の果ての女で、形だけでも一つになった風を装って人生を終えるのだろうか。もちろんどれほど、心が離れていると自覚しても夫婦の形を壊すことはない。今更そんな勇気も時間も私にはない。覚束ない展望としては愛でひとつになるのではなく、なんとか慰め合って寄り添える位置にまで持っていけるかどうか。そんな私の感情は置いておくとして、冷静に考えるとどうもおかしい。思いも寄らないところで逆鱗に触れたり、頑な、を通り越した思い込みに憑かれている。もしかしたら、、という不安が胸の内にもたげてきて、、ああそんな先々は触れたくもない。

2026年1月20日火曜日

神楽を見る(その二)

 「八衢(やちまた)」という演目だった。神楽は子供の頃から何度も見に行っているが、この演目は耳に新しかった。興奮を覚えるには悪を成敗する鬼退治ものが手っ取り早く、神話の筋など知らなくても楽しめる。秋祭りの神楽は外が白々するまで夜通し舞い続けるが、最初の方は緩やかに舞う神々だけが登場するので子供には退屈だ。しかしやしろ内の電灯が消されて外の屋台からもれる明かりを頼りに太鼓のバチさばきが激しさを増すと、幕合いから煙火が焚かれ煙に包まれて鬼が登場する。興奮のボルテージもあがり、激しく舞う衣装の帷子が跳ね上がって観客に触れるほどになる。神楽村は舞台を見るかたちだから、目と鼻の先で舞うほどの体験は無理だが、それでも四拍子八拍子の太鼓を体に響かせながら舞を見れば誰でも高揚するはずだ。受け売りだけれども八衢は天孫降臨の路程で現れる眷属、西洋風に言えば大天使だと思うがこの天からの道を護る鼻高の猿田彦神(さるたひこのかみ)と降臨を導く天宇津女命(あまつうずめのみこと)との遣り取りを演目にしている。鬼も大蛇も出なかったが、この猿田彦神が結構な暴れ者で見応えはあった。娘も初めての神楽体験で、終わるや否や正月気分を味わったと口にして満足そうだし、本人の高揚した顔を見ると往復二時間費やした甲斐はあった。会場を出るとあれほど晴れ渡っていた空は灰色に覆われ、降雪は激しさを増し視界は数メートル。車をすっぽり覆った雪を腕で払い落し、なんとか運転に支障がないよう処置して帰途を急いだ。娘はやはり雪女だ。

2026年1月19日月曜日

神楽を見る(その一)

 三次に向かう国道375号線から横道にそれ、県道を北西に取ると景色は一変する。昨晩から降り始めた雪で急峻な山壁に林立する木々は覆われ、山合に差し込む陽光に木々から落ちる雪が舞い上がって光輝いている。時折現れる空の青が背景となると、沈んだ水墨画の世界が一気に映えてくる。娘は雪女だ。この時期に日本に帰省すると必ずと言っていいほど雪が降る。それも交通を阻むほどの降りようになり予定を変えざるを得なくなる。実は父の、娘にすれば祖父の見舞いに合わせて訪日を早めたのだが、天候のせいもあって父の臨終には間に合わなかった。葬儀は年内にと急いだせいで葬儀にも間に合わなくて元日の夕にやっと到着した。娘にすれば祖母だが一人きりとなった離れの家に手を合わせに向かった。遠路はるばる来たのだからと、親なりに気を使い、ついでにその足で安芸高田まで車を走らせた。安芸高田には神楽村があって秋祭りを逃しても演舞を見ることができる。三が日でも開いていることを確認して往復二時間のドライブだ。平野部から山間の奥深くなる道につれ雪の降りようは増してきた。しかし断続的で雪雲も千切れ千切れで、青空なのに雪が舞っているという状態だ。雪景色は見るには美しい。娘も日常の会話を遣り取りしているうちは可愛さもある。しかし内面に少しでも触れようものなら雪女ばりに冷たい言葉を吐いてくる。そういつまでも若くないので少しは角が取れただろうか、どうだろうか、と思っているうちに目的地に着いた。開演にはまだ時間があるので展示物やら神楽の歴史やらに目を通して時間を潰した。屋内といってもドアはほぼ開けっ放し状態で、実はその時妻は身体を冷やしたようで後々感染症で入院することになる。

2026年1月17日土曜日

今日の想い 1443

日本は役所に行っても、わからないところあれば懇切丁寧に教えてくれる。葬儀も行ったことはあってもやったことはないのでどうなるものかと不安だったが、葬儀社が一から十まで親切に教えてくれて選択肢を出してくれて、全てははいかいいえで応えれば事足り、まさか喪主の挨拶の定例文まであって読み上げるだけでいいとは思わなかった。ある程度の費用さえ出せば至れり尽くせりだ。その分自由度は失せていて、私がどうしたいかではなく世間一般ではどうなのかを基準にして私を合わせていく必要がある。アメリカの役所はそれはそれは冷たい。建物も冷たいが人も冷たい。アメリカに行って先ず運転免許証を取る為に免許センターに行くのだが、こいつは英語がわからないとなると扱いが雑で罪人に対するのと変わらないなと思った。しかし更新の為に何度か行ってみると、英語がわかろうがわかるまいが関係なく丁寧に扱われたことは一度もない。日本人が犯しやすい過ちだが頭を下げて下手に出ると相手は横柄な態度を取ってくる。ふんぞり返るくらいな姿勢で大きな声で話すとそれだけで向こうの態度は変わってくる。体格がない分多少にも体重多めの方が確実にいい。役所だろうが裁判所だろうが、ビジネスの交渉事であっても主張した者勝ちが罷り通っている社会だ。しかし我儘を通せるのではなく主張するなら納得させる必要はある。すべてがこちら次第な分自由度は高くなる。世間一般の基準などないし、だから自分を合わせるのではなく先ず自分の思うところを立てる、信念を立ててこそ前進できる。どちらがいいとは一概には言えないが、日本は言いたいことが言える社会ではないだろう。自分を合わせる社会なのか自分に合わす社会なのか、合わせることに長けた日本人が世界に羽ばたけば、どこでも重宝がられるし確実に角が取れて平和な世界になっていく。

2026年1月16日金曜日

今日の想い 1442

私は御父母様を知って祝福を受けている、神様も霊界も知ってみ旨に歩んでいる、それが食口の誇りとしての柱になっている。それでこの地上で為すべきことはその柱を中心として副柱を立てたり垂木を渡して行けば内的な神殿を築くことができる。原理を知りみ旨に歩んでいけばいいだけ?の人生でその途上で最後を迎えればいい。もちろん食口それぞれで違うだろうが、敢えて括ればそんなところか。そしてそれなりの喜ばしい霊界で居を構えて永遠に生きる。この世の堕落世界は復帰されるべきだが、本質的には神の側にある私とは関係がないし、だから国から断罪されようが社会から疎まれようがある意味どうだっていい。冷ややかに見ればそういう感じだ。果たしてこれが愛に生きる私、心情を相続した私だと言えるだろうか。どこか割り切っている人生、どこか打算的な信仰のように思えて、本当にこれでいいのかと思うのは私だけだろうか。今の社会に対する教会の状況、それに対する食口の状況、アボジが御存命ならどんな言葉を私達に差し出されるのだろうか。もちろん御母様がおられる。しかし御母様の言葉は殆ど伝わってこない。それは食口に任せるところが多くてそうなのか、下の方まで伝わりきらないのかはわからない。今の収監中の身であられる御母様であれば尚更だろう。確かに分派は分派でおかしいのはわかる。しかし教会もどうみてもおかしいだろう。一世はどんどん霊界に送られている。霊界の中に食口の階層があってそこに集って統一村を作っているなら、この伸るか反るかの地上の緊急事態に何らかの働きかけがあっても良さそうなものだが、霊界に旅立ってみるとイメージと大きく異なっていて食口は右往左往なのか、上往下往なのか訳のわからない状態にあるのかも知れない。地上に於いて教会としての明確な見解が見えてこないところをみると、少なくとも天国とか楽園とかで一つになって生活している状況にはないだろう。

2026年1月15日木曜日

今日の想い 1441

 献身して人生を捧げてきた一世の多くは、人生を捧げると同時に自らの生命をも捧げることにも躊躇しなかっただろう。み言葉をどの程度理解していたかどうかに関わらず、成約信仰を持つにあたっては初恋にも似た熱情が燃えていた。独生女信仰を持つ食口に、教会初期の熱情的衝動に似た想いを持っているのかどうか、御母様御母様と祈祷する多くは二世食口だと思うが、今の御母様の状況に対して一世達の初期の切実な想いがあるだろうか。独生女信仰に移行(?)できている諸先輩の多くは、論理と言い訳だけは返す言葉もでないほど長けてはいるが、彼等こそ熱い想いは感じられない。少なくとも私が接する一世に関してはそうだ。しかし摂理を牽引していくのは二世達だし、御母様も二世に期待をかけておられていて一世に対してそれはない。だから一世が何を言おうが放って於けばいいだけのことなのだが、老いて力もないのに前面に出ようとして自説を広めるのは摂理を歪める。一世は御母様と二世に対して申し訳ない一心の想いのみであって、二世に対して上から目線でどうこう語る内容も立場もない。一世は摂理の願いに対して大失敗した自覚をしっかり持つべきだろう。解散問題も御母様の収監もその原因は一世のしでかしたことにあるわけで、二世でもなければまして御母様でもない。御母様に対して進言の一つもできなかったのは、御母様に対する畏怖の念からではなく、後でとやかく言われたくないという無責任から進言を避けてきた。御母様を親とは見ず役所の首長ぐらいにしか思ってないから、責められ怒られるかもしれないことに敢えて口出ししようとはしない。食口の多くは神輿担ぎでイエスマンだし御父母様の前で言葉を述べるとなるとおだて持ち上げる言葉しか並べない。一世達が御母様を裸の王様に仕立て上げてしまった。

2026年1月14日水曜日

今日の想い 1440

 壇上で語る牧会者はみ言葉を交えながら、溢れんばかりの希望的な言葉の羅列に余念がない。それは恰もトンネルを抜け出せば眩いばかりの天の恩賜が降り注ぎ、試練の期間が悪夢のように消え失せる、そんな期待を持たせてしまう。私達は何度も何度も、幾重にも幾重にも、修練会の中で、また聖日礼拝で、いろんな教会の催しにおいて語られる希望的言葉で現実に対してきた。いや対してきたのではなく、希望的思考や感情という教会の大気の中で安穏としてきた。食口はそんな教会説教を受け取ると、楽天的姿勢や態度を無意識に取ってしまう。楽天的は建設的とは異なる。楽天的は夢想状態で結果責任が曖昧であるのに対し、建設的であれば地に足をつけていて結果に対する責任感情をしっかり引き受けている。アボジから多くの摂理的案件が示されながら、どれほどの結果を残して来ただろうか。何をやるにしても地に足がついておらず、結果を残した日本の万物復帰以外どこも尻すぼみで、いつしか消え失せてしまっている。もし教会がこの世に対してアベルだとするなら、カインをサタン呼ばわりするものの学ぼうとしなかった過去をどう反省するのだろうか。アベルが独走すべく独善的な姿勢で周囲を見ずして何の復帰摂理だろうか。今回の一連の対応については日本の教会の独善性がよく表れていて、聞く耳持たずだ。せめて反省する姿勢の真似事だけでも示せていれば、何らかの生き延びる道が残されていたかもと思うと、残念でならない。教会解散は組織の死刑宣告だというこの重大さがわかっていない。教会が御母様を独生女として立てる第二の信仰に移行するなら、先ず楽天的な無責任性とカイン無視の独善性から改革して、摂理に対して結果を残せる教会にして欲しかった。

2026年1月12日月曜日

今日の想い 1439

 体がだるい。どうやら風邪をひいたらしい。インフルなのだろうか。ワクチンは打ったもののこの程度なのはワクチンが効いているということだろうか。微熱があったが今計るとほぼ平熱だ。しかしだるい。重くてだるい。うつしてはまずいので母を訪ねることはしばらく避けたい。霊前に飾られていた花を持って帰って飾っていたが、それらも頸を折ってしなだれてしまった。だるい体を持ち上げ終わった花を始末した。それにしても妻が入院していて幸いだった。幸いだというのもおかしいが、同じ部屋に居れば必ずうつってしまう。今は私はここでひとり、妻は病室でひとり、そして母もはずれの別棟でひとりだ。暫くひとりだった父は重い体から抜け出て、迷うことなく居るべきところに向かって旅立っただろうか。それとも自らの生涯を振り返りながら生きたことの意味を霊に刻み込む期間だろうか。父は法事にはナマンダブナマンダブと口にはしていたものの、死んだら終わりで極楽浄土などないと言い放っていた。要するに信仰は生きている者の慰めであり供養であって、死者は死者で勝手に消えてなくなるものと信じていた。ナマンダブは方便で、殆どの日本人がそうであるように霊を信じない唯物主義だ。父は体を離れても生きている自分を先ず受け入れるところから始めなければならないだろう。浄土真宗は四十九日の苦行の旅は必要なく、阿弥陀如来に即極楽に連れていかれるらしいが、父はそれも信じてはいなかったはずだ。どうもこの体の重さとだるさは父の旅立ちと関係があるように思えてならない。

2026年1月10日土曜日

今日の想い 1438

アボジについても、そして御母様についても様々な論理的解釈は成り立つだろう。しかし人間は感情として納得できる結果ありきの場合が多く、それに合わせて論理を組み立てているので、こうこうこういう理由で御母様の独生女が成り立つと言われても、受け入れない者に対しては意味を為さない。既に何度も触れているように、自分は堕落人間として生まれたという自覚があるにもかかわらず、堕落した位置(霊的無知)でこの御方は罪のない御方なのかどうかの判断がどうしてできるのか不思議だ。堕落世界の出である第一の御母様候補、第二の御母様候補とアボジは関係を持たれたからアボジは罪の根を受けてしまった等という説明は、堕落と罪に対して極めて現実的であり戒めによる血筋の話でしかない。御父様の使命としての路程でありながら、結果として失敗したにも関わらずそれを堕落だと言ってのける神経がわからない。戒めという教条で堕落だ復帰だと決められるならこんな簡単で単純な話はないだろう。現実的話をするなら罪ある親から罪のないイエス様が生まれアボジが生まれたように、御母様ですら地球外生命からやってこられたのではない。正直な話御母様がアボジの罪のあるなしを、同じ親から生まれた他の兄弟に罪があるならアボジに然りだという説明も、肉体生命による血筋の話で霊的血統の話ではない。私は心情こそが本質的な意味での霊的ということであり、エバと天使長との関係性で神様の心情を蹂躙して断ったから堕ちたのであり、アダムも単純にエバと交わったという話ではなく、心情蹂躙に加わってしまい心情を断ったから同じように堕ちてしまった。そして神の主管の及ばない、すなわち心情の及ばない生命圏外へと逃げてしまった。

今日の想い 1437

通夜と葬儀の挨拶は、自分の人生の大半はアメリカ生活だったので日本語は未熟だと前置きして話を始めた。通夜で話したことは、お寺さんの高説は私にはほぼほぼわからないが、しかし法話が始まると同時に父が喜んでいるのを感じたということ。挨拶に立つまでは何を話そうかと思っていたがこの実際に感じたことを簡単に述べた。葬儀で話したことは、控室にあった喪主挨拶の定例文を読み上げて終わろうかと思ったが、しかし内々の葬儀なので父の生い立ちの一部でも触れて故人を偲んで欲しいと話を始めた。父の幼少の頃の事故による大やけど、身障者扱いによる職業訓練所での理容技術の習得、田舎に帰ってからの結婚と開業、そしてその雪深い田舎で二男一女を育てながら人生の大半をそこで送ったこと。私はあの田舎が兎に角嫌いで高校は田舎を出て広島市内に行ったし、最後には地球の裏側まで逃げてしまったが、あの住み辛い田舎で父と母が生活し続けたというのは、それだけで尊敬に値すると思っていること。親に一番心配をかけ苦労をかけた私が言うのかということだが、幼少期の事故から出発した父の人生は難儀な事の多かったのは想像に難くない。しかしなるようにしかならんと、Let it beの哲学で苦難を乗り越え生き切った人生であったこと。そして父の分までも残された母を気遣っていくので見守っていて欲しいと話を閉めた。慣れていないので当然つまりつまりの話しぶりだったが、滔々と話すより返って会葬者に届いたのではないかと思っている。私が立派だと思われるより、父なりの立派な歩みが届けばそれ以上の息子としての願いはない。

今日の想い 1436

父は生前、「なんもええことはない はように死んだほうがええ」と口にするようになった。母から小言を言われた時もそう言うし、体に力が入らず立ち上がれないときもそう言うし、トイレに間に合わず粗相をした時もそう毒づいていた。そう楽に死ねるもんでもないでと返すと苦笑いで応酬していた。子供のような父で特に家の中では好き放題の言いようで、父がいない今でもどう返していいものか考えている。父の臨終に立ち会ったし、葬儀も行い骨も拾った。父の死は明らかなのに、しかしそれでも未だにこの世から父がいなくなった実感はない。老後に構えた家の玄関を開けて、居間のドアに付いているガラス小窓から前と同じように父が見えると思っているし、オンラインの囲碁のやり方を教えて結構のめり込んでいたが、いらぬところを押してパソコンがフリーズすると必ず連絡してきていたのだが、未だにその電話を待っている私がいる。父の死を受け入れるも何も、私のどこかで死んではいないと思っていて感情がどうなのかという段階には至っていないらしい。確かに通夜や葬儀の手配、喪主代理としての挨拶、香典返しや更には法要の手配もあったり、役所での手続きやらもあり体が忙しく心は置き去りのままなのはそうだろう。そうなると四十九日の法要が終わって、やっと自分の内面に父の死が刻まれるのだろうか。母は今のところ元気ではあるが、なんせ92なのでそう遠くはないはずだし、妻は透析患者で最近滅法弱くなってきているし、次から次へと忙しい日々が待っていると思うと、ひと段落する頃には私自身が参ってしまってあっさり死の門を潜るのかもしれない。若い頃に悩み抜いたり、思慮もなく行動したり、み旨だ摂理だと走り回った時代がなかったかのようすっぽり抜けて、どう介護するかどう送るかの老後が自分の人生の大半のように思えてしまう。

2026年1月6日火曜日

今日の想い 1435

 「夕日がとてもきれいだね 野垂れ死ぬかも知れないね」...NHK朝ドラばけばけの主題歌、笑ったり転んだりの歌詞の一部だ。この歌を聞くたびにアボジの例のあのお話を思い出す。既に記したことはあるが、「平和の主人、血統の主人」の中の例の話だ。障害のあるユクムソク夫婦の話だ。十一月に雪が降り始める前にアボジの故郷に訪ねてきて、昼食を準備して松の木陰の、夕焼けのとても暖かい所で二人で食事を取りながら、二人で寄り添って座り、喜びながら眠りについて、そのまま逝った...という話だ。このお話は決して不幸な夫婦の、かわいそうな死に際の話ではない。前置きに目を通すと、障害者の男性を夫に迎えたとしても一緒に暮らせないとなれば、天国には行けず相対がいないまま死ねば消えてなくなり、障害があったとしても、結婚して一緒に楽しく暮らせば生活において天の国がすべて待遇してくれる、、という、絶対愛絶対性に繋がる夫婦愛の話だ。はたから見ればこの夫婦は野垂れ死んだわけだけれども、彼等は夕焼けの暖かい最高のシチュエーションで寄り添い喜びの中で人生を閉じた、うらやましいほどの天の保護下にあった。私はこのみ言葉のこの一節に目を通すたびに、霊的な内容に価値を見出すことに疎く、この世的肉的なやがては消え去る価値観に毒されている、それこそが堕落性として私の中に居座るサタンだと再認識させられ改めさせられる。父の葬儀がやっと終わったと、いくらか安堵に浸ろうと思った途端、今度は相対が肺炎を患い入院するはめになった。ここ数年は透析で安定していたが、年なのか寒さのせいなのか感染に応戦できず弱くはなっていたということだろう。波乱の幕締めからの波乱の幕開けだ。私の人生には、大変なとき常にその時々の励ましの歌が寄り添い、そのメロディーや歌詞が背後で流れている。息子が大病を患った時もそうだった。相対が長時間の手術に臨んだ時もそうだった。そして昨年の暮れからは「笑ったり転んだり」のメロディーが流れて寄り添ってくれている。私は天の保護下にあって、消え去る孤独な存在ではない。

2026年1月5日月曜日

今日の想い 1434

人一倍忙しい年の瀬だったせいか、新年は知らぬうちに明けていた。謂わば2026年は2025年の延長だという感覚だ。祖父の臨終に間に合わせたいということで、娘が急ぎ向かったが、アメリカから間に合うはずもなく葬儀の時も機上の人でしかなかった。息子はどちらにしろ離れるわけにはいかず、早々に献花をしてくれてそれはそれで祭壇が華やかになって有難かった。通夜の集いでふたつ発見したことがあった。ひとつは念仏の唱和を終えてお寺さんが法話を話してくださるのだが、それを聞きながら私自身は聞きなれない仏教語や言い回しに理解が難しかったのだが、お寺さんが嚙み砕くような口調でゆっくりと法話を話し始めると、途端に重たい空気が軽くなり「ああ父が喜んでいる」と隣に聞こえるほど咄嗟に口にしていた。仏式葬儀は慣習的な意味合い以上のものはないと思っていた私には新鮮な発見で、周囲の景色も明るくなり献花の花々も生きているようだった。そして今ひとつは念仏が始まると母が急に涙を流し始め、ハンカチで目頭を何度も拭いながら母のすすり泣きは通夜の集いの間中止まることなかった。臨終の報せをしても何も驚かなかったし通夜のその時までケロッとしていて動揺は何一つないように思えたのだが、母にすれば我儘でしかない父にも関わらず、お互い90を超えるまで添い遂げたからには、子供にすらわからない添い遂げた夫婦としての言葉にできない深い想いがあったことをその時知った。母にすれば大晦日に送ってからの夫のいない正月だ。昨年と新年は生活も状況も心の在り様までも全く異なっている。その変化に母は対処できるだろうか。逝った者は先祖に任せる以外ないが、残された者は生きていかなければならず、これまで以上に母を支えていかなければならない。

今日の想い 1433

 押し迫った31日に父の葬儀を執り行った。29日夕に息を引き取り、葬儀屋に早速に連絡を入れ30日に通夜をしての31日、年内に済ませた方がいいという頭があったものだから抜かりのないよう段取りすることに意識を集中させた。だから通夜でも葬儀の時も、涙を流し亡骸に話しかけるような余裕はなかった。今は滞りなく終わらせたことの安堵に浸っているが、世間の正月気分でも引いてしまえば改めて父を送ったことへの内面の総括を迫られるだろう。父は幼少の頃、囲炉裏に転がり落ちて左足を大火傷している。子供には左の素足を見せることはなかったが、変形しているのはわかるし不自然な歩き方をしていた。そんな幼少期から出発した父の人生は、難儀なこと多かりし人生だったのは確かだ。勿論私は高校を卒業すると同時に教会に献身し家を飛び出したものだから、長男である私自身が父のもっとも頭の痛かった部分であることはよくわかっている。常に飄々として自然体で生きてきた父だから多くの困難を遣り過ごしてこれた。父の口癖は「なるようにしかならん」で、何かあると常にそう口にしてきた。Let it beが父の人生哲学だった。海外生活が長いし一度も経験のない実質上の喪主だったが、妹夫婦や葬儀社の計らいで何とかこなすことができた。葬儀の後もいろんな手続きが残ってはいるが、父に倣ってLet it beで乗り越えていきたい。