2017年2月9日木曜日

後天開闢時代を主体的に生きる

原理の理解、御父様のみ言葉の理解だけで新しい創造の力が出る、宇宙を相手にできると思えるなら、そのように生きてそのように肉体を脱げばいい。しかし私は或る主体存在に対する対象存在である、すなわち生かされている存在だという自覚があるなら、主体核の位相が変われば私という対象核もそれに合わせて変わっていくという自覚もあるはずだ。しかし変わっていく、平たく言えば内的に、さらに霊的に成長していくということであって、主体核に合わせて変わっていくことは対象核としての喜びでもあるはずだ。御母様の言葉を受け入れられずに、すなわち御父様との霊的因縁に留まったままで果たしていいのか、それは御母様の胎から生れ出た私という自我を否定したまま生き続けることであり、それで良しとするならそこ止まりの位相であって実体圏に至ることはないだろう。実体圏に入ってこそ信仰のみでは得ることができなかった実感を得る。そして実感を得る段階こそ本当の意味での実体的環境創造が為され、実体的天一国が為されるはずだ。要するに環境創造への熱が湧き力が出るはずだ。産み直された自分の出所、すなわち自我の起源が真の父母だと、それが信仰としてではなく実感している者が果たしてどれほどいるだろうか。固定した信仰に留まったまま肉体を脱いで本当に天国の住人になれるだろうか。地上で解かれることは天でも解かれるように、地上で天国生活の実感を得てこそ天国の住人になれる。御母様を否定するサンクチュアリにつくことは新しい信仰であると思えるし、御父様を否定するかのような御母様につくのもまた今までとは異なる新しい信仰だとも思える。信仰に留まることで善しとするなら原理と御父様のみ言葉に辻褄が合うサンクチュアリに軍配が上がるのかも知れない。しかし信仰を超える、すなわち宗教を超えて環境創造という実体的結果を求めるなら信仰基台に留まるのではなく実体基台へと内的霊的にシフト変換しなければならない。ユダヤ教徒がイエス様を受け入れられなかったのは信仰に留まりユダヤ信仰に固執していたからだ。クリスチャンが御父様を受け入れられなかったのも信仰に留まりキリスト信仰に固執していたからだ。であれば成約聖徒が御父様御聖和の後、御母様の言葉を受け入れようとしないのも先天の信仰に留まり信仰に固執しているからだ。信仰基台から実体基台へとシフト変換すべきであるなら、宗教を超える、すなわち信仰を超えて環境創造できる実体的意識が要求される。それこそが後天時代を生きる新しい私だ。しかしそれは信仰を捨て去ることではなく、あくまで信仰を土台とし信仰を超えることだ。