2017年3月16日木曜日
今日の想い 941
御母様に従うのは新しい信仰だとわりきるとしても、それが御父様に向かう信仰の在り様と同じであれば、やることなすこと裏目に出てきた過去の歩みと同じであって環境創造の御題目が地に堕ちる。先天は頭を持たない信仰だった。指示や命令はその言葉通り何の疑問も挟まれることなく手足としての任務を全うしてきた。献金ノルマを与えられてそれがどう使われるかに首を突っ込むのは御法度だった。新しい葡萄酒は新しい革袋に、、という聖句のごとく、新しい信仰は新しい価値観に拠るのでなければもたない。新しい価値観、すなわち旧来の意識や認識を変えていかない限り新しい信仰は保てない。もっとも変えるべき点は責任意識を持つということであり、先天では、付いていけば何とかなるだろう、救われるだろうという他力本願意識で環境創造とは程遠い内容で許されていたが、後天は実体を持たない限り責任を全うしたとはいえない。ある意味使い古された摂理だみ旨だという私達が使う言葉には、為し得ないものだという責任逃避の刷り込みが衣服の汚れのように染み込んでいて、今の今声高に叫び続ける意味はない。御題目の様に唱えながら結局は御父様まかせで勝利実感がないからだ。過去の歩みは大風呂敷を広げながら妄想に終始していたと言われてもしかたない。しかし御母様が願われるのは実にプラクティカルな内容で実践的であってこそ環境創造為し得る。ではその意識転換をどのようにするのだろうか。実は私達は意識転換のトンネルを今の今通過中だ。新しい意識で暮らす新世界への産道を通り抜けている。より早くに通過した者が環境創造に主体的に関与し意識を集中させることができるが、今の三つ巴とも言える混乱に溺れているのなら未だ産道の入り口あたりで入るのを躊躇し、いざ入るとしても先へ進むのをもがき苦しむ、そんな難産を覚悟しなければならないだろう。今こそ御母様が言われる「感謝します」という意志の大切さが強調される時はない。感謝感謝と口にしていれば感謝しているような、そんないい加減なものではなく、「感謝します」と「責任を持ちます」は同義語のように扱われるべき意志の言葉だ。「愛します」も同じようにその言葉には自ずと「責任を持ちます」という言葉が含まれている。責任意識がなければ感謝も愛も意味をなさない。修練会に参加して、祝福家庭は霊界に於ける位置が違うと持ち上げられて喜んでいるうちは、み旨も程遠く摂理も一向に前進することはないだろう。
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