2017年10月31日火曜日

今日の想い 957

私達の信仰の多くの部分は教条的な縛りにかけられている。だから教条主義に立ちやすい。すべきこととしてはならないことが思考や感情の基礎として魂に存在している。絶対信仰と言われれば当然、戒めが自分だけでなく他に対しても信仰の判断材料として宛がわれてしまう。もちろん教条的なものは必要だ。しかしそれが勝利された御父母様から戴いた重要な部分ではなく、それを超えた赦しこそが勝利された御父母様の権威であることを忘れている。私達祝福家庭の最も誇るべきことは御父母様をいただいているということだが、その中心的意味は私達には赦しがあるということに他ならない。原理もみ言葉も勿論大切で重要な御父母様をいただいていることの意味だが、祝福を考えてみたとき、祝福は許しがあってこそ成り立つのであって、祝福と許しは一体不可分、表と裏の関係であり、祝福家庭だと言える背後にはそれ相応の赦しが与えられている。お互いがそれぞれに間違っているとの非難応酬も必要かも知れない。御母様への疑問も生じて当然だろう。それでも御母様は御母様だ。赦しは御父様によってであって御母様は関係ないと誰が言えるだろうか。そして誰が赦しを与えられた身でありながら非難することができるだろうか。堕落人間であること、あるいはあったことを忘れている。祝福の背後のとてつもない赦し、天宙的赦しを与えられた身であることを忘れている。絶対信仰は教条的な意味で捉えがちだが絶対的な赦しがなければ絶対信仰という言葉は意味をなさない。訓読を絶やさなければ絶対信仰と言えるのか。間違いを犯さなければ絶対信仰と言えるのか。十一献金をしていれば絶対信仰と言えるのか。本来人間に絶対などあり得ない。それでも絶対信仰、絶対愛、絶対服従と言葉にされたのは絶対的な赦しが与えられるからであって、不信したり愛せなかったりの連続であっても絶対的赦しが与えられるから信仰は繋がり愛は継続する。