2017年11月28日火曜日
今日の想い 959
利己と利他は相反するものかどうか。私達は往々に善と悪、公と私、というふうに分けたがるし、一方でなければ一方だという観念に捕らわれている。その最たるものが神かサタンか、神側なのかサタン側なのかというものだ。原理に照らせ合わせればその目的性、方向性によるということだろうが、どういう立ち位置で見るかによって異なってくるので本来一概には言えなくなる。更に私達には中心性という言葉があるように、中心からくる判断を絶対的なものだと鵜呑みにする。中心からくる判断は善なる公的判断であり自分の思うところの判断は悪なる私的判断だと、これまた一方でなければ一方だという観念が基礎に置かれている。この二者択一は後天時代に於いても内的基礎足り得るのかどうか。先ずはっきりすべきことは利己と利己主義(自己中心)を混同してはならないことだ。利己は良しとされても利己主義となると話が異なる。では利他を考えた時に利他主義(為に生きる)は私達が立てるべき主義だけれども、利己を完全否定してしまえば私という存在を否定しろと言われているに等しい。御父様のOXの話は良くできていて、Oの中にいくらでもXは入るというのは為に生きる位置のOの大きさで利己欲求に応えるものはそれ相応に満たされるという話だ。自己中心であることは悪だけれども利己を否定するのではなく、それ相応に取り分を得ることを御父様は否定しておられない。幹部がマンションをいくら持っていようがそれをどうこう言うのは共産主義者であって、それほどの公的位置であり天が認めているからそれ相応の持ち分を得ていると捉えるべきだろう。私達がこの世に影響を与えるほどの外的力が持てないのは外的に与えるもののない貧乏臭さが滲み出ているからだ。脱北者が南でなかなかうまくいかず政府の生活保護を受けざるを得ないのは、自分で考え自分で稼ぐという意味が北の体制の中で生きてきてわからないからだ。食口、特に一世がこの世でうまく渡り合えないのも、教会メンタリティーを超えることができず自己成長の責任を委ねてしまって引き取らなかったからだ。北の住人のメンタリティーと私達のそれとは非常に似ている。
2017年11月24日金曜日
今日の想い 958
定かではないがみ言葉の中に慰安祝福の言葉が出てきたのは「慰安祝福をこれからはしない」という打ち止めの時に語られたみ言葉として表されたときで、それまでみ言葉として語られていなくても慰安祝福が許されていたことは事実としてあったことになる。しかし打ち止めの後にも相対を亡くした者達が願えば許されたことも事実であり、その件に関しても敢えてみ言葉として表されたわけではない。捉えようによっては理想相対は一人だといいながら一方で妥協しているかのような対処にみえる。それをおかしいと思うかどうか。おかしいと思うのは当然だろう。おかしいと思ってもその事実を先ず受け入れることはできる。しかしみ言葉を戒めとして捉えている以上、受け入れる余地はまったくない。祝福にしろ理想相対にしろ戒律概念からきた言葉ではなく御父様の赦しであり恩恵のみ言葉だという認識は極めて大切だろう。心情は教条的信仰を超えたところにあると私は信じているし、規律に反しているから心情とは程遠い、とは思わない。不倫の末の奪い婚だと矢面にされた御方も、信仰を超えた愛に生きることを選ばれたと取ることもできる。心情を求めるが故の決断かどうかは本人以外わからないにしても、誰もが怖気づくであろう非難の嵐に晒される立場を敢えて選ばれた覚悟は否定できないし、原理的によくないからという理由で自分は裁けても人を裁くことなどできるはずがない。私は私なりに受容している。耳にしたときはショックでも、その直後から理解しようとする意志を持ち続けている。しかしそれでも、子女様がそれでよしとされるなら私も同じ行動をとっても良しとされる、とは決してならない。私には肉の親がいて、霊の親がいて、そして魂の親が存在している。堕落していなければ霊から肉体そして魂(霊肉一体圏)となるのだが、堕落しているから肉から霊、そして霊を中心とした霊肉一体圏の魂となる。霊の親は明らかに御父母様だが肉の親ではないし魂の親とも異なっている。私は霊の親を出発点として霊の相対を肉の相対を通して与えられたのであり、共に歩みながら魂の相対とする過程を通して霊の相対であることを確認し、理想をさらに理想たらしめている。理想相対という概念は愛を否定してしまえば存在しないし、愛は霊を否定してしまえば存在しない言葉だ。理想相対を追求し、理想家庭を追求するなら形に捕らわれた相対や家庭をこえなければならない場合もあり得るかもしれない。理想家庭を追求するために家庭が壊れざるを得なかった、という言葉は、殆んどが言い訳として使う者もいる一方で、犠牲としてそなえた言葉とする者もいる。事実御父様は真の家庭を築くまでに家庭は壊れている。さらに壊れた後の再祝福を受けた食口はいくらでもいる。冒頭に触れた慰安祝福だが、この慰安という言葉が引っ掛かった。慰安という言葉から今の私に連想されるのは先ず慰安婦だ。しかし慰安婦論議以前にすでに慰安祝福はあり、後に出てきた慰安婦に同じ慰安という言葉を宛がえられているのは決して偶然ではないと思っている。性文化の流れはフリーセックスから付き合っている相手とのみの関係となり、それは一対一の関係であり誰彼構わずのフリーセックスとも幾分異なるが一生涯契りを交わした夫婦のみという性とも異なる。人が一人でいるのはよくないという聖書の言葉から、人が一人でいるのは無理があるとする地上的現実的に捉える性文化だ。慰安祝福は人が一人でいるのはよくないという立場なのか、それとも無理があるという立場なのかどちらだろうか。慰安婦は戦時の兵士達の特別な状況下に於いて、無理があると捉える者達の妥協措置だ。慰安婦という呼称は別として、ある兵士達(すべての兵士とはいえない)にとって彼女等は凌辱の対象ではなく安らぎの存在だった。それを決して善だと言うつもりもないが、敢えて口に出して(公の場で)悪だと宣言してしまえば、なら慰安祝福はどうかという話になる。戦時下の兵士達の状況を今の道徳的観念を宛がえてどうこう言うことなど普通はできないのだが、死を突き付けられた者達と生死の意味を真剣に捉えようとする信仰者は霊的に同じ問いを与えられていて、慰安祝福を受け入れるかどうかを問うなら慰安婦を受け入れるかどうかも問わねばならない。慰安婦問題は道徳感情をカードにした極めて政治的問題になっているが、祝福に対する私達の曖昧にしている部分が形になって問題を起こしていると捉えるべきだ。曖昧にしている部分は決して戒めで捉えるみ言葉から解決されるものではない。
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