2026年3月2日月曜日
今日の想い 1456
信仰とは両刃の剣だ。彼が犯行に至った経緯に触れてみると、彼自身も含めて全てを破壊する意志に人生を捧げざるを得なかった家庭状況と経緯をみることができる。私がマインドコントロールされていると言われればそれは違うだろうとは思うが、妄信しやすいかどうかを問われれば、信仰者としてそうなりやすいのは頷かざるを得ない。私には彼の母親は典型的な妄信によるもののようにみえるが、本人にしてみれば妄信だと認めるまでは信仰、それも篤い信仰であって、おそらく多くの食口も妄信とは認めないだろう。八割方彼自身の問題であって、母の信仰行動に今回の問題があるとは食口の誰も言わない。日本の信仰はアベルを通して受け取る神様の願いに絶対服従で応えることだ。全てを捧げるように言われて、無いものは出せないにしてもあれば出すのは当然だと思っている。そして彼の母親はあったので出した。捧げることでどうなるかという家族の明日を心配するより、彼女にすれば従って捧げることが絶対服従だった。そのような事情と経緯を辿った食口は彼女だけではなく、献金路程に於いてそれなりの資産を持つ多くの既成夫人がそうだったはずだ。絶対服従が間違いだったのか、アベルの指示が間違いだったのか、献金摂理そのものが間違いだったのか、それともアボジの要求が間違いだったのか。今更そんな問いを立てたところでどうにかなるものではない。しかし、私達の信仰観、信仰とは何かを問わざるを得ない状況であることは間違いないだろう。信仰に組織的団体信仰なるものはない。信仰はあくまで私と神との関係であって、神の名を語る誰に対しても神の代身を認めるべきではない。信仰が妄信に変る一線を把握できるかどうかは信仰の内的動機にも依っている。寄りかかるものを求めることがどこまでも変わらず信仰動機であるならそれは真の信仰には至らない。神は親だから私の幸せを与え、家庭の幸せと健康を与え、霊界の喜ばしい環境をも与えてくれる? あり得ない。全くあり得ない。親なる神は私を神の子女としてどんな状況でも雄々しく強く闘い勝利して独り立ちすることを願っている。アボジの私達への願いは第二の真の父母になることであって、絶対信仰、絶対服従、絶対愛は私の良心に対する概念、生殖器に対する概念であって、人間アボジでもなければ人間御母様でもない。
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