2007年9月26日水曜日

神の基地

今まで御父様が手を付けてこられた多くのプロパティーが全国全世界にある。その場でなんらかのビジネスをなしても赤字であったり、はなからビジネスなど考えられず、税金だけが年毎に加算される場合もある。既存のビジネスがどれ程キャッシュを創出しても赤字と税金の穴埋め、それもザル受けの状態だから、先任の責任者は御父様に会う度にお願いを申し上げて処分しようとされた。しかし首を縦に振られることは先ず無い。頑ななまでに一度手にした土地なり物件は死守される。御父様の中では金に換えることが出来ない価値をそこに認めておられると言うことになる。この観点から見てもお父様の捉えられる金や不動産の意味と、我々のそれとでは大きなギャップが存在する。人類が辿ってきた歴史は神の復帰の歴史である。それは神側サタン側、両者の奪い合いの歴史だと言うことも出来る。永い永い気の遠くなるような歴史を経て、真の父母を地上にもたらせる条件が整い、真の父母の息遣いを感じながらの今のこの時である。身体を持たれた神の立場で手を付けられたものは、サタン側から神側に奪ったもの、復帰されたものとして歴史に残る勝利記憶として残される。一度神側に手に入れたものをこの世的感覚でサタン側に譲り渡したとなると、それは金銭的価値を遥かに超える犠牲があとに残されることになるのだろう。そのひとつひとつのプロパティーは死亡圏から救い出された神様が臨在できる場に違いない。霊的に視るなら七色に光り輝く場がそこにある。御父様に近づくべくそこまで想像の域を高めていくと、今我々のビジネスの拠点やレストランひとつひとつの重みが少しはわかってくる。確かに直接に指示されたものではないにしろその都度報告はいくだろうし、ましてや我々の名で祈る時代であれば報告祈祷に於いて既に認知されてもいる。今回、経営状態がうまくいかないひとつのレストランの処分に関与しながら、そこに自分の想いを超えた寂しくも苦しい情を覚えた。ビジネスであってビジネスで割り切れない内容がそこにある。明らかに今の自分の行っていることは願いとは逆行しているという想いだ。将来的発展を担保にすることを通してこそ許されるだろうし、それは私達の後孫に降りかかってくるものと捉えるべきなのかも知れない。

2007年9月23日日曜日

説明できない想い

恐らく本当の意味で私達は目覚めていない。自分自身が当然と思っている事柄全てを先ず疑ってかかる必要があるだろう。間違っている認識を固定して、その上にどんなにまともそうな論理を組み立てようとも空論の域から出ることは無い。いい加減過去から学習する必要がある。どんなに立派そうな企画を立てようが、どれ程高尚な目標を掲げようが、それに対する行動と結果が伴ったことが一度でもあるだろうか。ある面空虚な夢をまことしやかに奉ることが目的で、その後の事はどうだって良かったのだとすら思わせる。御父様の願いと我々の願いは本当に同じ方向に向いているのだろうか。我々が思うビジネスと御父様が思うビジネスは同じものだろうか。我々が扱う金に対する認識と御父様の金に対する認識は同じなのだろうか。その認識が違えば扱い方も当然違ったものになるはずだ。御父様の願いと同じ願いを我々が共有していたなら、少なくともこんな情けない現状はありえないと思う。疲れている兄弟があまりにも多すぎる。個人的にも公的な立場に於いても上を向いて成長する事を投げ出している。仕事上の事を言っているのではなくて、御父様に近づきたい、為に生きる事に喜びを感じる生でありたい、真の愛の相続者でありたい、人間本性としての成長であり魂の成長に対する願いを捨て去っている。その一人一人の兄弟の責任だと本人も皆も思っているのかも知れないが、しかし本当にそうなのか周りの兄弟の責任は無いのか組織や責任者の責任はないのか。今の状態にほって置く事が天の願いなのか。自分の責任であり全体の責任だと思いやる気持ちは無いのか。もしそうであるならここに神様はいないと言うことになる。どんな立派な、御父様が喜ばれそうな企画と目標を提出しても、それを形にする所の、本心から感謝し喜び一つになり決意する兄弟がいないのにそれが本当に現実的なものになり得ると責任者は思っているのだろうか。私には理解できない。私が担当している店はコストが低いのか利益がそれなりに出ているのかそのテクニックを聞き出そうとする。先ず店に魂を入れるべきだとか従業員には与えることが喜びであることを気付かせてあげる必要があるだとか私自身は数への表れはここが基であると本気で言おうとしているのに、何が一番売れているだとか従業員の給料が高いか低いかとか表面的なことにしか関心を示そうとない。最初からそんなテクニックなどないしそれを見つける意味もない。儲けようと思ったことなどない。御父様の為にという想いで献金をと言う思いはあっても、客に高いものを売りつけ従業員を安い給料で使って儲けようと思ったことは一度も無い。結果として今の数字はこうなっているというだけなのだが、それでは納得しないようだ。勿論先のことは分からないし来月は赤字かも知れない。しかし自分はそういう時期があってもいいと思う。今日店を開き、為に生きる喜びを味わい、店に来て御父様からくるその愛の流れを少しでも受ける客がいれば自分はみ旨をやっているという自覚がある。それはビジネス的思考ではないと誰かが言うが、そんなのはどうだっていい。それがビジネスでないのなら私はビジネスをやりたいのではない。私はみ旨をやりたい。

2007年9月12日水曜日

レストラン業務姿勢

何年歩もうがレストラン経営は泣き笑いだ。営業中に停電になる。従業員がまとめて辞める。誰かが金をくすめる。めかし込んでる客に醤油をかける。髪の毛が入っていたと言いがかりを付けられる。客が転ぶ。食べ物を喉につかえさせる。毎日毎日何が起こるか分からない。目の前に起こった問題に身体が自然と反応して対処し始めることで次のステップに繋がる。変化に富んだ毎日を否応無く突きつけられるのがレストラン経営でありシステムやマニュアルで事足りる業種ではない。意思が要求され能動的姿勢が要求される。毎日数十人数百人という客に揉まれていると人間強くなる。霊的内的なものが鍛えられる。客の数だけ接し方、問題が起こったときの対処の仕方、喜ばし方は違う。そこにテクニックやマニュアルは通じない。謙虚な想いと感謝の想いがどれだけ自分に備わったかで相手への対し方が見えてくる。問題から逃げるのではなく問題の中に自分から入って行こうとする姿勢が自分の自然体となることによって業務を続けられる。