2007年9月23日日曜日
説明できない想い
恐らく本当の意味で私達は目覚めていない。自分自身が当然と思っている事柄全てを先ず疑ってかかる必要があるだろう。間違っている認識を固定して、その上にどんなにまともそうな論理を組み立てようとも空論の域から出ることは無い。いい加減過去から学習する必要がある。どんなに立派そうな企画を立てようが、どれ程高尚な目標を掲げようが、それに対する行動と結果が伴ったことが一度でもあるだろうか。ある面空虚な夢をまことしやかに奉ることが目的で、その後の事はどうだって良かったのだとすら思わせる。御父様の願いと我々の願いは本当に同じ方向に向いているのだろうか。我々が思うビジネスと御父様が思うビジネスは同じものだろうか。我々が扱う金に対する認識と御父様の金に対する認識は同じなのだろうか。その認識が違えば扱い方も当然違ったものになるはずだ。御父様の願いと同じ願いを我々が共有していたなら、少なくともこんな情けない現状はありえないと思う。疲れている兄弟があまりにも多すぎる。個人的にも公的な立場に於いても上を向いて成長する事を投げ出している。仕事上の事を言っているのではなくて、御父様に近づきたい、為に生きる事に喜びを感じる生でありたい、真の愛の相続者でありたい、人間本性としての成長であり魂の成長に対する願いを捨て去っている。その一人一人の兄弟の責任だと本人も皆も思っているのかも知れないが、しかし本当にそうなのか周りの兄弟の責任は無いのか組織や責任者の責任はないのか。今の状態にほって置く事が天の願いなのか。自分の責任であり全体の責任だと思いやる気持ちは無いのか。もしそうであるならここに神様はいないと言うことになる。どんな立派な、御父様が喜ばれそうな企画と目標を提出しても、それを形にする所の、本心から感謝し喜び一つになり決意する兄弟がいないのにそれが本当に現実的なものになり得ると責任者は思っているのだろうか。私には理解できない。私が担当している店はコストが低いのか利益がそれなりに出ているのかそのテクニックを聞き出そうとする。先ず店に魂を入れるべきだとか従業員には与えることが喜びであることを気付かせてあげる必要があるだとか私自身は数への表れはここが基であると本気で言おうとしているのに、何が一番売れているだとか従業員の給料が高いか低いかとか表面的なことにしか関心を示そうとない。最初からそんなテクニックなどないしそれを見つける意味もない。儲けようと思ったことなどない。御父様の為にという想いで献金をと言う思いはあっても、客に高いものを売りつけ従業員を安い給料で使って儲けようと思ったことは一度も無い。結果として今の数字はこうなっているというだけなのだが、それでは納得しないようだ。勿論先のことは分からないし来月は赤字かも知れない。しかし自分はそういう時期があってもいいと思う。今日店を開き、為に生きる喜びを味わい、店に来て御父様からくるその愛の流れを少しでも受ける客がいれば自分はみ旨をやっているという自覚がある。それはビジネス的思考ではないと誰かが言うが、そんなのはどうだっていい。それがビジネスでないのなら私はビジネスをやりたいのではない。私はみ旨をやりたい。
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