2016年2月20日土曜日

今日の想い 906

歴史は夜作られる。その言葉は男女の行為が夜行われることからきた言葉では勿論ない。でも陰陽の一体化によって創造がなされてきたことから見れば全く的外れな言葉でもない。しかし創造理想としての行為は、感覚の至悦のみならず、感覚を超えるものでなければ、すなわち0点を飛び出すものでなければ本然的であり創造的とは言えない。感覚を超えてこそ神様が訪ねてこられ、神様の創造が始まる。堕落人間が堕落人間たる所以は、行為は己が感覚の欲望が動機であって感覚を超えた存在への帰依から衝動を発する、或いは許すものとは異なっている。どんな理屈を用意してもそこに自己中心の片鱗でも動機にあれば神様はそこには臨在されない。があってその中にが存在できるのであり、他体自覚があってこそその中に感覚的悦びが恩恵として許される。感覚の欲望が動機としてありきではない。サタンがどれほど巧妙に人類を支配してきたかは感覚の悦びへの欲望がどれほど強いかに表れている。一方で神様の摂理は肉的感性の否定による霊的感性の芽生えと発育を通してサタンの牙城と化してきた欲望世界に亀裂を入れ、世界の只中に世界にワープする隙間を生じさせてきた。御父様にとって、御父母様にとって、男女の行為は感覚的欲望の充足ではない。存在のひとつひとつを新たな愛すべき愛の対象として再創造する、為に生きる行為に他ならない。堕落と性が切り離せなかったように、再創造である復帰と性も切り離せるものではない。性や生殖器に関する様々なみ言葉を受け取ってきたが、自体自覚である感覚的衝動を許したままだとただのエロい堕落的言葉に過ぎない。しかし他体自覚に立つ私を用意して受け取れば深遠なる創造のエッセンスと鍵をそのみ言葉から受け取れる。御父母様が立てられた勝利圏は大会や宣布として私達に刻まれているが、それは真の父母による天地の再創造を地上的に現している。そして天地の再創造はみ言葉を通して私自身を再創造している。また私達の様々な出来事は世界の出来事に反映される。はからずも「天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会」に於いて共産主義者達からワシントンタイムズが奇跡的に戻ってきたと話されたが、グループ派が共産主義者だという意味をどう捉えたらいいのだろうか。共産世界の世界的牙城は崩れ落ちたがそれでも共産国家はあり、民主国家と対立している。さらにはISというテロによって国を立てようとしている集団もあり、世界はこの民主と共産の二者プラステロという情勢にある。教会が三つに分断されている状況が世界の三つ巴とリンクしている。サンクチュアリをテロとリンクしているといえばあらゆる批難を買うだろうけれども、テロ集団以前に彼等は徹底した原理主義者の集まりだということは述べておきたい。どちらにしろ大きく三分割されている現実をみると象徴的代表的な私達の役割とは関係なく世界が動いているとは言えず、それどころか私達の行動がそのまま世界平和に反映されている。それは偏った見方だろうか。狭い範囲の問題ばかりが積みあがっていき、世界摂理はおろか家庭の摂理も氏族の摂理も一向に進まない。その現実に私自身も頭を抱えているが、その現実をいかに主管していくかが全ての段階の摂理とタイアップしている。祝福中心家庭、氏族メシヤとして生きるとはそういうことではないだろうか。その認識に立てば現状がどうあれ能動的人生にならざるを得ないし創造の為の主体と対照、カインとアベル、陽と陰の一体化へと意志を発動できる。歴史は確かに夜作られる。世界人類の様相が昼なら夜は御父母様を中心として内外の活動をする私達祝福中心家庭であり氏族メシヤ国家メシヤ達だ。歴史は私達によって作られる。さらに言えば世界人類の夜の立場にある私達は天地父母を中心とした昼の側面であり、それに対する夜の側面は天宙父母を中心とした私達の霊と祝福を受けた先祖達だ。祈って尋ねもしながら霊的感性のアンテナをしっかりと立てて、天の父母様、天宙父母のサインを傍受できる私になることは父子一体圏の入り口であり、父子一体を中心としてカインアベル一体圏も陰陽一体圏も現れる。一体圏から現実世界への存在の創造がなされる。環境創造だ。創造の覇権、主管性の覇権は私達にある。

今日の想い 905

コーチングの先生から目標を設定し、その為の戦略やその戦略の為のステップなどを設定していった。その都度考える私達に、「答えはあなたの中にあります。」と繰り返し言われたことが印象に残った。そう、全ての答えは私の中にある。その意味は、答えは既に私の中に届けられていて、その答えのパッケージを開いて見ようとすればいいだけだということだ。しかしそこにそれを見ようとしない自分がいる。見ようとすればするほど、できないやれないという自分を肯定することになる。それは好きでこの仕事を始めたのではなく摂理の要求に首根っこを抑え込んで自分を従わせてきたという認識があるからだ。自分の中を見れば、もともとこの業種が好きで自ら望んで入ったわけではなく、摂理に応えなければならないという縛りが動機にある、、という入り口まで一気にさかのぼる。堕落の私はそこが出発点であり限界だ。堕落の私を超えた新生自分が大きくなるなら父子の因縁を出発点とする起点まで行きつくはずだが、しかし復帰途上で堕落の私が自分の大方を占める私はそこまでだ。天の父母様の愛が動機の中に組み込まれているはずという仮定の私から、父母の愛を実感する生き生きとした私の動機を用意しなければ、堕落の私にどうしても負けてしまう。私達は結局その父子の因縁という原点を捉えなければ、通常のこの世的夢としてあれがしたい、こうなりたいというような動機付けでは摂理を担当しきれない。この世に於いてはコーチングも大きなツールになるだろうけれども、犠牲を喜びとすべきという私達の信仰観はその次元を超えている。目標を皆の前で宣言して誓いを立てるというのは、経済が摂理の主流だった当時の私達の目標達成の儀式だったけれども、儀式に代えてそこにコーチングを組み込めば、おそらく摂理は進まなかっただろう。そのツールに当て嵌めていけば自分のやりたいことはこんなことではないはずだと気付いてしまうように、信仰のために中心者に捨て預けた頭をわざわざ取り戻すことになるからだ。宣誓の儀式は万物復帰のような単純な活動であればあるほど功を為した。そしてそれに慣れ親しみ体質にまで浸みこんだ私達、特に一世は、複雑なこの世の社会活動や経済的活動で頭角を現そうとすればその体質を否定して自己主張できる論理性を組み込まなければならない。しかし体質と信仰観は表裏一体のようにひっついており、コーチングで目標達成できるような体質を備えるためには今の信仰観を捨てて新たな信仰観を用意できなければ難しいだろう。私達の意志はそれほどにこの世のものとはかけ離れ、うまく言えば中心者が扱いやすく、しかしこの世的知恵や実力は縁遠いものとなっていく。今は祈りを深め熟慮を重ねて新しい私を準備するときだろう。私達は過去の先天時代の信仰観を捨てて新しい信仰観を備えなければならない。やれと言われたからやる、、と言うのは今の時代通じなくなってしまった。それは私の外に神様がいた先天時代の時のことであって、私の中に神様がおられるなら、自分の中から沸き起こる天的な衝動に突き動かされてやる、すなわち良心(神)の声が動機となって意志する私達であるべきだ。それは絶え間なく湧き出ずる泉の如くだ。それでこそこの世を凌駕する私達になれる。