2016年2月20日土曜日

今日の想い 905

コーチングの先生から目標を設定し、その為の戦略やその戦略の為のステップなどを設定していった。その都度考える私達に、「答えはあなたの中にあります。」と繰り返し言われたことが印象に残った。そう、全ての答えは私の中にある。その意味は、答えは既に私の中に届けられていて、その答えのパッケージを開いて見ようとすればいいだけだということだ。しかしそこにそれを見ようとしない自分がいる。見ようとすればするほど、できないやれないという自分を肯定することになる。それは好きでこの仕事を始めたのではなく摂理の要求に首根っこを抑え込んで自分を従わせてきたという認識があるからだ。自分の中を見れば、もともとこの業種が好きで自ら望んで入ったわけではなく、摂理に応えなければならないという縛りが動機にある、、という入り口まで一気にさかのぼる。堕落の私はそこが出発点であり限界だ。堕落の私を超えた新生自分が大きくなるなら父子の因縁を出発点とする起点まで行きつくはずだが、しかし復帰途上で堕落の私が自分の大方を占める私はそこまでだ。天の父母様の愛が動機の中に組み込まれているはずという仮定の私から、父母の愛を実感する生き生きとした私の動機を用意しなければ、堕落の私にどうしても負けてしまう。私達は結局その父子の因縁という原点を捉えなければ、通常のこの世的夢としてあれがしたい、こうなりたいというような動機付けでは摂理を担当しきれない。この世に於いてはコーチングも大きなツールになるだろうけれども、犠牲を喜びとすべきという私達の信仰観はその次元を超えている。目標を皆の前で宣言して誓いを立てるというのは、経済が摂理の主流だった当時の私達の目標達成の儀式だったけれども、儀式に代えてそこにコーチングを組み込めば、おそらく摂理は進まなかっただろう。そのツールに当て嵌めていけば自分のやりたいことはこんなことではないはずだと気付いてしまうように、信仰のために中心者に捨て預けた頭をわざわざ取り戻すことになるからだ。宣誓の儀式は万物復帰のような単純な活動であればあるほど功を為した。そしてそれに慣れ親しみ体質にまで浸みこんだ私達、特に一世は、複雑なこの世の社会活動や経済的活動で頭角を現そうとすればその体質を否定して自己主張できる論理性を組み込まなければならない。しかし体質と信仰観は表裏一体のようにひっついており、コーチングで目標達成できるような体質を備えるためには今の信仰観を捨てて新たな信仰観を用意できなければ難しいだろう。私達の意志はそれほどにこの世のものとはかけ離れ、うまく言えば中心者が扱いやすく、しかしこの世的知恵や実力は縁遠いものとなっていく。今は祈りを深め熟慮を重ねて新しい私を準備するときだろう。私達は過去の先天時代の信仰観を捨てて新しい信仰観を備えなければならない。やれと言われたからやる、、と言うのは今の時代通じなくなってしまった。それは私の外に神様がいた先天時代の時のことであって、私の中に神様がおられるなら、自分の中から沸き起こる天的な衝動に突き動かされてやる、すなわち良心(神)の声が動機となって意志する私達であるべきだ。それは絶え間なく湧き出ずる泉の如くだ。それでこそこの世を凌駕する私達になれる。

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