2017年4月29日土曜日

今日の想い 943

筋を通す、という言葉は信念を貫き通すということであり、別にやくざでなくとも、国であれ会社であれ或いは宗教であっても組織にはその組織としての信念が生きているから成立し、組織生命が活動していく。それは個人においても同じで、自分の中に揺れる自分を見る、即ち様々な自分が存在していて完全にひとつになってはいないが、それでも暫定的な統一個人として筋を立て、筋を通して生きている。しかし今はすべてが揺れる時だ。地上が地震で揺れるように霊的に揺れ動いている。それは分裂させるほど強く揺れていて国において揺れ組織において揺れ家庭において揺れ、個人において揺れている。統一すべき中心が不在か、はたまた影が薄く見えなくなっている。地球の中心軸である地軸が揺れ動き移動している。安定していたものが動くから地層プレート間のズレが生じ地震が起こる。地震や異常気象が起こるのは地球の地軸を決める関係にある太陽と月からの影響だ。月が主体的に関わっていって新しい地軸の位置が決定される。陰暦が主体だと言われた御父様の言葉通りだ。月と陰暦と、そして御母様は切っても切れない関連性がある。御母様の主体的発言と姿勢を通して私達の内的霊的地軸は決定される。新しい内的霊的地軸と地球の地軸移動とは性相と形状の関係でリンクしている。私達の新たな信仰、信念は新しい内的霊的地軸によらなければ立たないし、そこにおいて筋を通す必要がある。御父様に侍ることはみ言葉を自分の中に立てようとすることであったのに対し、御母様に侍るのは確実にその基盤の上で実績を供えるという環境創造にある。食口は実績を備えてこその食口だと当然のように思っておられる。先天時代のように、御父様御父様と甘えていれば振り向いて下さる御母様ではないということだ。それほどに冷たく厳しくあってこそ私達の暫定的中心軸から後天を生きる本当の内的霊的中心軸になれる。暫定的中心に留まりたくても留まれないから揺れに揺れて当然の私達だ。揺れていれば筋を通そうにも通せない。今の教会はどんなに説明を加えて筋を通そうにも無理があって、揺れが更なる揺れを引き起こすことになる。御母様に真摯に対そうとするならば、論理をもって自分を納得させようとするのではなく環境創造すべきであり、その実践的自分を創造するツールとしてみ言葉に対するべきだ。自己満足で終えるなら、訓読も修練会も、はたまた摂理だと思い込んで没頭している歩みも意味がない。祝福家庭だとおだてられ、食口は霊界で先祖に讃えられ霊人体が輝いている等といわれて誇らしい思いがわくとしても、それは只の自己満足に過ぎない。御父母様との霊的因縁は満足した時点で既に終わっている。そんなことよりは実情を憂いて、環境創造できる実績を備えるために悩みぬき奔走すべきだ。

2017年4月5日水曜日

今日の想い 942

今年は桜が咲かない。毎年、ドカ雪で外に出ることもままならない日が一度か二度はあるはずが、今年は雪がちらつくことすら少なく、二月という冬真っ只中で70度近い日が数日続いたりして秋からそのまま春になったような感じだ。その気象異常のせいなのか、毎年満開になる見事なアパートの桜が、今年は半分咲いてそのまま枯れ落ちてしまった。今までそんなことは一度もなかった。タイダルベイスンも、ケントウッドも、近くのローカルの街路樹も、まわりの桜という桜は満開なのに住んでいるアパートの桜だけは咲かない。まわりの摂理は進んでいるのに私を中心とした摂理は中折れ状態だと突きつけられた気分だ。確かに私は足踏みしている。食口達もいろんな問題を抱えたまま足踏みしているのかと思っていたが、みんなもそうなんだから自分も当然だと宙ぶらりん状態にあぐらをかいていて、進んでいる摂理が見えなくなっていた。いや、見ようとしなかった。60を超えた身でありながらまわりを評論し中心を批判している暇はないはずなのに、為すべきことを為したいと思えないまま未だに意志を備えられない自分がいる。やがて訪れる裁きの時、それは死を迎え霊界の現実をみる時かもしれないし、悲観に埋没して責任を放棄し完全な無気力になる時かもしれないし、はたまた世界経済が破綻して持ち合わせているものが何の役にも立たない時かもしれない。そんな思いをめぐらす時点で実は相当病んでいる。私が本当に統一精神を相続したのなら、現実の厳しさを十分味わいながらもそれでも一歩を踏み出すはずだ。叩かれても叩かれてもそれでも立ち上がるはずだ。果たすべき責任がどれほど大きかろうとその重荷を背負って歩き続けるはずだ。そういう自分こそ私の良心は願っている。枯れ落ちた花を無残にも踏みしめながら、やがて生い茂る緑葉を纏う桜の大木を見上げている。足下の褪せた花々の想いに報いるためにも、私は責任完遂のために歩き続けなければならない。