2017年9月13日水曜日

今日の想い 956

天使は人間に奉仕する存在だと原理によって認識しているけれども、天使に限らずあらゆる存在は為に生きる存在であり奉仕する存在だろう。人間でさえもそうだ。他の為に生き神様の為に生きるべきなら人間も天使も同じだ。人間は死んだらどうなるか、霊界の存在になる。霊界の存在=天使存在だ。霊界で悪霊であれ善霊であれ、はたまた聖霊であっても天使存在だ。祝福家庭は霊界で天使達にかしずかれる等という稚拙なイメージは早々に砕いて、為に生きる私になることに忙しくあるべきだ。為に生きることが喜びの私になれない限り霊界生活は苦しいものとなる。霊界は地上以上に他の為に生きることに忙しい。地上で学ぶ愛、それは愛される愛ではなく愛する愛であって、犠牲的立場を如何に感謝できる自分となり喜びとまでするか、という愛だ。犠牲的愛を学んでこそ霊界で生きる。霊界報告の偉人達の証しを読めば判で押したように感嘆詞の羅列になっていて白々しさを覚えるが、いざ地上で表現しようと思えばそうならざるを得ないのであって、地上で表現できないほど深い世界、心情世界が霊界だと捉えるべきだ。奉仕というと如何にも気持ちの良さが伴う奉仕活動のように思えるけれども、それは肉体奉仕による魂の慰めに止まってしまうのであり、み言葉のいう奉仕、犠牲精神は魂そのものの奉仕をいっている。それは決して気持ちの良いものだけではない。苦しみが伴い悲しみが伴い時には魂の引き裂かれるのも甘受する奉仕だ。今をいうならこの混乱期の中で食口達は悩み苦しんでいる。清々しく御母様に従っている食口がいるのであれば地球のどこであっても訪ねたい。訪ねてその理解と霊的在り様に接したい。自分には多くの疑問があり蟠りがあるのも認めるが、だからといって御母様に背を向けようとは思わない。たとえ私自身を御母様が否定されたとしても、それでも御母様は私の御母様だ。ある子女様は御母様に従うと地獄に行くとまで断言されたが、たとえ地獄に突き落とされるとしても御母様に背を向けることは私にはできない。魂の引き裂かれるのを味わいながらも、これもまた犠牲精神であり天への奉仕だろう。心情が私の中で育まれている。心情という言葉の本当の意味を受け取ろうとしているのであり、それでこそ心情を相続できるはずだ。貴方は認知症になった母を忌み嫌い捨てますか。誰もがそれは否定するでしょう。では傲慢な母なら捨てられますか。或いは無知な母なら背を向けますか。私の母がこんな子を産むんじゃなかったと口にして地獄の心情を味わうとしても、それでも私は母の子であり母を捨てることなどあり得ない。

2017年9月12日火曜日

今日の想い 955

どうしてここまで日本国民は国益を否定する民になってしまったか。本人にその自覚はないにしても先導するマスコミに煽られたまま、その是非を自らに問いかけるかけることもなく頷き同調する。それがそのまま国民として守られている日本国を否定してしまっている。確かに先の大戦はあまりにも犠牲が大きかった。その時代を苛酷に生き抜いた世代の戦争への嫌悪感が半端なものではないことは理解できる。犠牲の大きさ故にそれは軍への嫌悪にもなり核も含む武器への嫌悪にもなっている。どうしても嫌悪という感情から抜け出せないでいる。そのトラウマとも言える感情の反動から国体を否定してかかる。その感情をマスコミを通し、教育を通して受け、引きずっている。国を失おうとも自分が生き延びれればそれでよしとさえ思っている。大半がそう思ってしまえば御父様が触れられたように日本の5分割は当然の成り行きだろう。日本人はこの感情をどうにも超えられないのだろうか。感情による奴隷状態のまま、霊的見地には立てないのだろうか。ミサイルが頭上を飛び交う、目と鼻の先でたとえ実験であれ核が爆発する、それらを降ってわいたような災難だと思っているけれども、今の韓半島情勢、東アジア情勢は負の感情を引きずる日本の状態が引き寄せた危機だという認識がない。槍を突き付けられた今こそ、日本人は先の大戦による負の感情を越えなければならない。危機は一方でチャンスだと今こそ断言できるし、サタンが現れれば必ずその背後に神が顔を覗かせてどちらにつくのか伺っている。日本は今こそ立ちあがってほしい。裸のエバではなく力ある母となってほしい。