2018年1月28日日曜日

今日の想い 963

父が肺炎で倒れた。急遽チケットをとり田舎に向かった。今は両親と共にいる。両親も随分年取ったが同じように家も年を重ねている。この寒波で2メーターも積もった雪に辛うじて耐えている。父はひと先ず退院はしたが大量の抗生物質に消化器系をやられ、腹の不調を訴え喰うものも喰わない。起き上がって歩ける位にはならないとそのまま置いて帰れないが、果たして90近い父に回復は望めるだろうか。どうしたもんかと思案にくれる。家の雪かきもすべきなのだが既に軒を超えていてショベル一つで遣り終える自信がない。父は機械を使っていたのだが手慣れていない私にはとても使えない。今も雪は私の心配を掻き立てるように降り続く。心配ばかりをこの場にいても膨らませる。妻の心配をし子供の心配をし、店の心配もして、今、両親への心配をどこまでも膨らませる。私はどこにいても心配している。させられていると思っていたけれども心配している。おそらく今の心配事が解決したとしても直ぐに次の心配事を見つけ出す。まるで心配するためにこの世に生まれたかのように、、。そう、おそらくそうなのだろう。私は心配するために生きている。だからわざわざ妻が病気になり、店の様々な問題が次から次へと起こり、今はずっと心配かけた両親を心配している。そしてそのことをしっかりと受け止める使命が私にはある。使命に生きてこそ原理的生活であり、み旨だ何だと言いながらそこから逃げるのは私にとっては堕落的だ。病気で生活もままならない親を無視したままで、どれほど教会活動に奔走したところで所詮堕落的だ。心配は受動的感情だけれども心配事の対象に正面から立ち向かうのは能動的犠牲精神だ。そうして私の霊はそれでこそ成長する。すなわち神様の対象足りうる。

2018年1月4日木曜日

今日の想い 962(性について)

性への欲望を不純なる自己中心的我慾とみるかそれとも霊的高みに上ろうとする純真なる願いとみるかは宗教圏に留まるか宗教圏を超えた本体論的意識に届くかであり、何の動機による性的行動かによって自己中心的なものに留まる肉的満足感を得るだけなのか、それとも愛の儀式として神様に供えることができるのかが決定する。母のいない天の御父様のみであった先天時代を超えて天の父母様としての後天時代が開かれた今、それは堕落のない時代、堕落できない時代であり、先天の性への罪悪感は後天に於いて引きずり抱くものではない。サタンによって悪用されたフリーセックスという肉的言葉が、後天に於いては内的な言葉としての自由な性、解放の性に向かうだろう。日の当たらないサタン的悪の儀式であった性は、善なる性、創造の性に取って代わる。愛が先か性が先かとなると愛が先に決まっていると当然のように言うけれども、実は性を通して愛が育まれ、また愛を通して性が実を為すというどちらが先というものでもない。取って食べてはならないという戒めの言葉は、愛があれば許されるというものではなく、祝福を受けてこそ許されるもの、いや為すべきもので、祝福を受けて初めて性を開き夫婦の愛を植え付け夫婦の愛を育てていく。現実問題として肉体を持っている以上様々な性に対する局面を味わうわけで、見たい触れたい心揺さぶられる肉の想いは押さえつけても押さえつけても噴出するのであり、またそれなりにその欲望に譲歩せざるを得ないのであり、しかしそれが罪だ堕落性だと自分を非難するのではなく良心との対話の内に、より夫婦愛を強くする方向に、より愛の実としての性への感謝に繋げるべきだ。万物への感謝が食欲と密接な関係性があるように、性への感謝も性欲と関係性を持たせる必要がある。万物への感謝によって万物の本質を知る者となり、それによって人は財を為せるように、性という愛の実への感謝によって愛の本質を知る者となり、それによって内的霊的財を為せる者、すなわち愛の人格を備える者となる。善なる性、創造の性は祝福を受けた者の特権であり、その意味は最初に記したように動機を正すことができるからであり、祝福家庭の性は為に生きるという目的性が明確に存在しているしそうあるべきだ。子を産むための性のみならず、あらゆる創造的種が植え付けられる性、真の愛、最高の愛の儀式としての性によって私達の神様は封印されておられた創造性を爆発的に解放される。