2018年1月4日木曜日

今日の想い 962(性について)

性への欲望を不純なる自己中心的我慾とみるかそれとも霊的高みに上ろうとする純真なる願いとみるかは宗教圏に留まるか宗教圏を超えた本体論的意識に届くかであり、何の動機による性的行動かによって自己中心的なものに留まる肉的満足感を得るだけなのか、それとも愛の儀式として神様に供えることができるのかが決定する。母のいない天の御父様のみであった先天時代を超えて天の父母様としての後天時代が開かれた今、それは堕落のない時代、堕落できない時代であり、先天の性への罪悪感は後天に於いて引きずり抱くものではない。サタンによって悪用されたフリーセックスという肉的言葉が、後天に於いては内的な言葉としての自由な性、解放の性に向かうだろう。日の当たらないサタン的悪の儀式であった性は、善なる性、創造の性に取って代わる。愛が先か性が先かとなると愛が先に決まっていると当然のように言うけれども、実は性を通して愛が育まれ、また愛を通して性が実を為すというどちらが先というものでもない。取って食べてはならないという戒めの言葉は、愛があれば許されるというものではなく、祝福を受けてこそ許されるもの、いや為すべきもので、祝福を受けて初めて性を開き夫婦の愛を植え付け夫婦の愛を育てていく。現実問題として肉体を持っている以上様々な性に対する局面を味わうわけで、見たい触れたい心揺さぶられる肉の想いは押さえつけても押さえつけても噴出するのであり、またそれなりにその欲望に譲歩せざるを得ないのであり、しかしそれが罪だ堕落性だと自分を非難するのではなく良心との対話の内に、より夫婦愛を強くする方向に、より愛の実としての性への感謝に繋げるべきだ。万物への感謝が食欲と密接な関係性があるように、性への感謝も性欲と関係性を持たせる必要がある。万物への感謝によって万物の本質を知る者となり、それによって人は財を為せるように、性という愛の実への感謝によって愛の本質を知る者となり、それによって内的霊的財を為せる者、すなわち愛の人格を備える者となる。善なる性、創造の性は祝福を受けた者の特権であり、その意味は最初に記したように動機を正すことができるからであり、祝福家庭の性は為に生きるという目的性が明確に存在しているしそうあるべきだ。子を産むための性のみならず、あらゆる創造的種が植え付けられる性、真の愛、最高の愛の儀式としての性によって私達の神様は封印されておられた創造性を爆発的に解放される。

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