2018年4月6日金曜日

今日の想い 966

地上では悩み通しだったとしても霊界に入って悩むことはない。霊人体の成長に関わらず、地上を離れ霊界に行くということは自分という存在の在り様に対する一つの結論を出したということに他ならない。人間は誰もが思い悩む。相反する思いが同居する。前にも述べたように、私という存在は多くの霊によって形作られ、多くの霊によって今の自分という魂が成り立っている。多くの霊によっているためにそれぞれの霊が声を発するのであり、だから地上の魂には悩むという表現として表われる。地上生の大義は愛の成長であり愛の実りだから、一方を生かして一方を抹殺するという二者択一ではなく、いかにアベルとカインを一つにして一体圏を創造するかでありそれが地上生の願いに応える愛の実りだと言える。一つにするためには何らかの犠牲がそれぞれに伴い、それが愛の投入、与える愛という表現になる。相反する思いの同居は一方がアベル的霊であり一方がカイン的霊だが、アベル的霊を遡ってゆけばアベルという存在に辿り着き、カイン的霊であればカインという存在に辿り着く。自分の中にはそのように多くの霊がアベル的立場、カイン的立場を霊の看板として掲げて同居している。食口は原理は永遠の原理だと信じているし、み言葉はいつの時代であっても真理だと認識しているが、それが善悪の秤として扱う限りは、実はどんな時代霊が治めるかによって異なってくる。しかし私達は原理を相続したのではなく心情を相続したのであり、心情の種を受け取る意味で真の父母に繋がったのであればみ言葉の解釈如何は些細な問題でしかない。心情をいかに育てていくかを中心に生きれば原理の目的は既に成就したことになる。原理の善悪秤によるアベルカインではなく、自分の中の異なる思いがアベルでありカインであることがわかれば、その繋がりから自分がどんな霊的存在達によって立たされているかが見えてくる。そして自分の使命も見えてくる。そして自分の内面のアベルカインの一体化、すなわち一体圏の創造が目の前の現実世界に鏡を見るように環境圏として現れてくる。地上で悩むという事は自分は使命を受けた存在であるということだ。悩みがなければ地上に生を受けた意味はほぼない。それは真の御父様であれ御母様であれ私達以上に悩まれたはずだ。もちろんその次元は私達のそれとは遥かに異なるものだろうが、、。霊界では明らかに悩みはなくなる。その意味は相当に平穏であり退屈な世界でもある。しかし悩みやその戦いから逃げず、愛という犠牲の本質を地上で学んだ霊は、その深くも広い心情世界故に行動の次元は爆発的に大きく広がる。

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