2018年3月18日日曜日
今日の想い 965
自分が責任を避けてきたのは甘い教会体質によるものだったとしても、もはやそれは言い訳以外のなにものでもなく、言い訳の為に思考や感情を使うのではなく責任を取る自分という意志を立て、意志を中心として思考し感情する私になる。そして結果を出さなければ最終的に責任を取ったとはいえないはずだ。甘えの構造は後天時代に入った今も教会に関連する組織内に色濃く残っていて、それは壊さない限り、或いは飛び出さない限り残り続けるだろう。御母様がどうの御子女様がどうのという思いも、我知らず責任を避ける言い訳として使っているのであって、私の良心が判断したみ旨、そのみ旨を為すための戦略である摂理を全うするために邁進すればいいだけのことだ。御父様の言い分と御母様の言い分が食い違おうともそれは地上の言葉であって、霊的見地に立てば一切食い違うことはない。でもはっきりしていることは御父様は地上にはおられない。その意味は語られた言葉に効力があるのではなく、言葉を通して受け取った霊的相続を通して効力を発するということだ。御父様のみ言葉を通して受け取った霊的基台の上で御母様の言葉を理解し受け入れることは、言い分が違うことによる問題は生じない。その意味が分からない者は霊的内容を全く理解していない。地上と異なる地上と同じ在り様の死後の世界を未だに見ようとしている。霊界はまさに地上と共にあって地上の原因を捉えられることが霊界を理解していると言える。現実の裏表が霊界であり地上だということだ。御母様の言い分が問題なのではなく御母様の霊的背後を見通せない私の問題であり、信仰生活が霊的開眼に繋がっていくのではなく、地獄に行きたくない裁かれたくないという逃げの自己中心的信仰によって、霊界という異なる地上世界を幻想しながら信仰生活が教条主義に陥っていることに問題がある。繰り返すと、原理やみ言葉に基づいていると信じていても思考が先行するのではなく、信仰的感情であったとしても感情が先行するのではなく、あくまで自らの使命を認識しその責任を全うする意志を先頭に立ててこそ摂理を担い、私への神の願い、み旨を掲げる私が立つ。
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