2024年4月23日火曜日

今日の想い 1292

暗い、とにかく暗い田舎に住むことが耐えられなかった。自分の内面にも押し寄せてきて凌駕しようとする、あの得体の知れない暗さの正体が怖かった。田舎を飛び出したかった。事実どこまでも逃げて逃げて地球の裏側にまで逃げ延びた。40年近く地球の裏側で生活してみてやっとわかる。恐れていた暗さの正体は私が作り出した妄想だった。それは死への妄想であり、また生きていくことの妄想であり、ありとあらゆる私の不安が作り上げる妄想雲に私は覆われていることがわかった。おそらく田舎にそのまま住んでいれば発狂しただろう。どこか日本に住み続けていたとしても何らかの心の闇を抱えただろう。しかしその体験が私をこの道に導いた。教会生活、献身路程の、あの魂を圧し潰しかねない歩みさえも乗り切ってこれた。そして祝福を戴いた。後に受けることができる、条件とも言えない簡単な条件で受けられる祝福、キャンディをばら撒くように受けられる祝福とは異なり、私が戴いた祝福は苦労した歩みを条件に戴いた生命にも勝る御父母様からの宝物だ。同じ祝福という言葉だとしてもその本質的内容は天地の差がある。今の日本の風当たりの強い環境で、さらに信仰を保っては来たものの生活の困窮には耐えられず、感情の矛先を教会に向けたり摂理を歩んできた自分を否定したり、果てはアボジやみ言葉すら否定するほどに自らを貶めるとなると、自分と自分の良心をどれほど悲しませるだろうか。羊なのか山羊なのかは今の今霊界が見据えているし、采配が行われている。

2024年4月14日日曜日

今日の想い 1291

神の摂理は人知を超えている。ちょうど心情世界である霊界が、地上人の認識や把握を超えた次元にあるのと同じようにだ。食口もそれぞれにそれなりの神の認識を持っているはずだが、自分の神認識がある段階に留まっていると、神が働くのではなく逆にサタンが働きかけるようになっている。認識の固定化は信仰の固定化からくるが、教条主義が信仰を固定化する最大の要素であって、宗教の歴史を見れば強められた教条主義によって宗教の悪の側面を際立たせている。宗教の戒めは戒め自体が目的なのではなく、戒めという枷を嵌めることで、すなわち戒め基準を良心基準の或る段階として立てることによって、より高い、より神に近い良心基準を見通すためにある。よってそれぞれの宗教には使命があり、その使命を達成したならその宗教は卒業したということであり必要はなくなる。新たなより神に近い良心基準を掲げた宗教に委ねるべきだ。み言葉が言葉の切り取りではなく訓読し流れてこそのみ言葉であるように、神認識も流れながら新たな異なる神の様相の側面を発見し受け取り続け、認識の階段を上ってこその神認識だ。人間が時間の流れの中で生きているように、私の神様は認識の流れの中で生き続ける。生きた神とはその意味で生きているのであり、地上の死生観を超えたところに生きた神は存在している。