神の摂理は人知を超えている。ちょうど心情世界である霊界が、地上人の認識や把握を超えた次元にあるのと同じようにだ。食口もそれぞれにそれなりの神の認識を持っているはずだが、自分の神認識がある段階に留まっていると、神が働くのではなく逆にサタンが働きかけるようになっている。認識の固定化は信仰の固定化からくるが、教条主義が信仰を固定化する最大の要素であって、宗教の歴史を見れば強められた教条主義によって宗教の悪の側面を際立たせている。宗教の戒めは戒め自体が目的なのではなく、戒めという枷を嵌めることで、すなわち戒め基準を良心基準の或る段階として立てることによって、より高い、より神に近い良心基準を見通すためにある。よってそれぞれの宗教には使命があり、その使命を達成したならその宗教は卒業したということであり必要はなくなる。新たなより神に近い良心基準を掲げた宗教に委ねるべきだ。み言葉が言葉の切り取りではなく訓読し流れてこそのみ言葉であるように、神認識も流れながら新たな異なる神の様相の側面を発見し受け取り続け、認識の階段を上ってこその神認識だ。人間が時間の流れの中で生きているように、私の神様は認識の流れの中で生き続ける。生きた神とはその意味で生きているのであり、地上の死生観を超えたところに生きた神は存在している。
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