2007年6月30日土曜日

久々の新規店舗

閑古鳥が鳴いていた三十席あまりのレストランを買ったと言う。どんな店かと興味津々で担当の兄弟の道案内で俄か査定を試みる。オープンして五年が経つと言うが机も椅子も新品同様だ。しかし、調度品が新しそうだからという理由でこのレストランを買ったわけではないだろう。正直どうしてこんな店を買ったのか私には理解できなかった。寂れたショッピングセンターの中程に位置した千二~三百スクエアーの店。土地勘がないのでそのショッピングセンターの地の利がどれ程のものか良くわからないため断言することはできない。感じる範囲で、こうしてみたらああしてみたらと言って置くしかない。担当者はそれなりにやる気があるのに、それを削いでしまっては元も子もない。そしてオープン当日。日本人世帯に対するあらゆる宣伝を打って始めたものの出足はいまいちのようだ。売り上げを尋ねるとランチで300ドルだと言う。私は上出来だと思う。恐らく前の経営の時はランチで百ドルいっていなかったと思う。月目標五万ドルと言うことだが目標は目標、最初から達成することなど望むべくも無い。レストランを二十数年手懸けてきたものが手を出す代物ではないとは思ったが、買った以上そこまでに至る経緯はあったはずだ。状況のわからないものがとやかく言う意味は無い。勝負はこれから賭けるものと覚悟すべきだろう。担当者がどれだけこの店に想い入れをかけるかだ。儲けようなどと言うスケベ根性は捨てて、どれだけこの店を愛するかだ。子供を育てるのと一緒であきらめない限りつぶれることは無い。しかし何とも寂しい想いがする。レストランの、とりわけ日本食レストランのプロの集団が取り掛かる物件なのかという思いが、どうしても払拭されない。それぞれの現場で歩んでいるマネージャー達の声を耳掻き一掬いでもと言う気持ちは起こらなかったのだろうか。どんな赤字の店の店長であっても、この物件を良しとする店長はうちのグループにはいないと思う。本部に取っては減るばかりであったレストランを一軒増やしたという事実が必要だったのかもしれない。

2007年6月2日土曜日

霊的生活

人間は肉身と霊人体をもっている。肉身は地上世界との情報と要素をやり取りしながら存在し、霊人体は霊界との情報と要素をやり取りしながら存在する。地上世界霊界と区別する感覚は地上生活的感覚の区別であり本来線を引いたように区別できるような内容のものではない。地上世界の特徴は感覚を通して受ける情報(ある意味要素)で生活する、すなわち受けることを通して生活する場であり溢れんばかりに受ける生活の中に与えることを学んでいく場が地上であり与えることの何たるかを学んで霊界で生活する。地上生活は受動的であるのに比べ霊界での生活は能動的である。地上で受けることしか知らないと、働きかけること与えることで世界が広がり認識される世界の霊界では非常に不自由なものとなる。与えることにいつも前向きな人すなわち愛の深い人こそ霊界での生活はより自由となる。この辺の感覚が理解できると霊的な意味がより論理的科学的なものとなる。咲き誇る花々や生い茂る木々には霊人体はない。霊人体はないが神の霊が直接的に働きかける。草木を霊的に観るなら魂に染み入る輝きを心地よく受け取る様を実感する。絵を見て感動する。それは絵そのものに感動しているのではなく筆遣い色使いを通し背後にある作者の想いを受けて感動する。すなわち霊的に見ていることを意味する。音楽を聴いて涙を流す。音の流れだけを受け取るのではなく流れに乗せられて作者の魂が届く。霊的に聴いているので涙が流れる。誰もが霊的に視たり聴いたりしている。しかし程度の差があるため自分を霊的な存在だと認識しない。内的なものに外的なもの以上の価値を見出すとき霊的成長が始まる。