2016年1月20日水曜日

今日の想い 903 (サンクチュアリの食口へ)

サンクチュアリ教会には、御父様が決められた後継者としての御子女様、という認識に従った食口達が集っている。教主としての御子女様の言葉は家庭連合に対して批判的であるどころか、御母様に対してすら痛烈な批難を浴びせられる。集う食口達の中には拍手喝采して扇動的意志を持つ者もいるだろうし、ご批判は避けてほしいと思う者もいるだろうし、人柄を受け入れて様子見で取り合えず参加している者もいるだろう。彼等がどう一枚岩になっていくかは主導する中心的立場の者がどれだけ献身的に支えていくことができるかによっている。御子女様に対する親しみの感情とか気分に包まれて今のところは何となく形を保ってはいるが、そんな気分は献身を要求され犠牲を要求される時点で吹っ飛んでしまう。そのとき彼に従った判断がどんなものか問われるのだが、そこまで掘り下げながら皆は集っているのかどうか、、。確かに、お話を聞けば頷けることも多々あるだろう。しかし教会の批判されて当然のあれもこれも、それなりの原因があるわけで、その原因も摂理を担当するが故の、あるいは摂理の願いに応えられなかったが故の我々に原因があることは誰も否定しないだろう。そうであれば対岸の火事のように責任者をどうこう言い、御母様をどうこう言うのは自分は摂理に対してきて負債はないという立場に立ってる。自分達だけは御父様公認の後継者に従うことで真の父母の勝利圏に立っていると思っているのだろうが、摂理の願いに応えられなかった責任感情がそこにあるのだろうか。自分は願いに応えられなかった当の本人だという自覚が少しでもあれば、こちらにつきます、あちらにつきますとカメレオンのように簡単に色を変えることはできないはずだ。問題は自分ではなく彼等であり、失敗したのは彼等が悪だからだと罵ることができるのだろうか。真の父母の勝利圏は御母様なしには立たなかったはずであり、見た目の良いきれいな事柄だけが積み上げられて摂理が進むわけでもないし、オンマアッパの仲よしこよしで御父母様の勝利圏が立ったわけでもない。ユダにどれほど大きな期待がかけられていたか、人類の代表的彼の位置を他の弟子達がよくわかっていれば彼が勝利できるよう彼を支えたはずだ。彼を裏切り者の代名詞のように思っているが、周りの取り巻きを含めて裏切った立場であり裏切ったユダの霊的負債を現代人も皆背負っている。裏切り者の血が堕落の血統の中に流れていて自分の中にもある。ユダを指差していると思っているけれども実はユダの血の流れる自分を指差している。その御子女様は御父様が後継者と決められたほどに代表的な位置に立たれていたが、はたして御父様は彼が御母様から袂を分かってでも後継者の冠を与え続けられただろうか。そのような行動に出られたことの背景に祝福家庭として御家庭を、その御子女様を支えられなかった責任は当然我々にあるが、その責任感情を覚える者であれば分かれた子女様を持ち上げて分から反に(正分ではなく正反に)わざわざ拍車をかけるようなことはしない。御父様も御母様も地上の常識的なものを超えておられる。グループ派に流れた者達は肉の親子だからそのうち許されるはずだと高を括って甘い見通しを立てていたが、そんなものが通じる御父母様ならとっくに真の父母の位置を下りておられただろう。イエス様に最も近かったユダが最も遠くなったように、御父母様に最も近い御子女様が普通の食口以上に遠く離れていくことを突き付けられる真の父母の位置は、途方も無い愛の犠牲、心情の犠牲を自らに強いられ甘受されておられる。

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