2016年1月7日木曜日

今日の想い 901(教条主義を超えて)

我々が常識と言う場合でもやはりこの世の常識ということになるだろう。だからみ言葉を受け入れ理解しようとする統一食口が常識的な人間であろうとするのは霊的な意味では気を付けるべきだ。常識を宛がう彼等は、過去の私達の歩みには反省すべき非常識な事が少なからずあるという見地に立たざるを得なくなる。そして彼等は原理もみ言葉も既存の良心判断による常識で測ろうとするようになる。御父様の語られる良心(神)ではなく良心的に見える心をして良心とし、その良心判断による常識で測ろうとする。清平のこともそうだし教会の金の流れのこともそうだ。そして御子女様のこともそうであり御母様のこともそうだ。天に祈って尋ね、天の答えと確信を得た判断ではなく、良識とも常識ともいえるこの世的なものに耳を傾けているに過ぎない。この世的な判断、常識を無視しろというのではない。それは現実を生きている以上無視しては立ち行かなくなるのだが、だからといって重心をそこに置いてしまうと、み言葉の霊的生命を受け取る境地に入れないばかりではなく、み言葉を堕落的私の理解できる言葉に置き換えてしまうことになる。統一食口の常識的判断はみ言葉を理解できる文字に変えて汲んでしまうことで教条的なものとなり、例えば祝福を戴いた夫妻は添い遂げることは当然だと、そこには一つの例外もなく御子女様も御孫様もそうあるべきで、、という現実の話になってしまう。しかしそこに現実的な問題は少なからずある訳で、祝福を戴きながらも壊れてしまうカップルも少なからずあって、それで彼等は終わりであるならみ言葉は現実を超えられないことを是認することになる。。彼等はどんな事情がそこにあろうとも非難されるべき者達、強く言ってしまえば裁かれるべき者達だと言えるだろうか。御子女様の中にも御父様が最初に決められた夫婦が壊れたり否定した御方もいるが、一体誰が彼等を非難し終わったと判断することができるだろうか。夫婦としての形を継続している者はそれは夫婦愛を勝利したからそうなのか、最初から馬が合うからそうなのか、ある距離感を持って付かず離れずという惰性的に続いているからそうなのか、一度考えてみた方がいい。形だけの夫婦、それはこの世的夫婦と言ってもいいと思うが、御父様のいう夫婦の在り方はそんな惰性的習慣的なものではないはずだ。ある御子女様に対して、食口の多くはその行動に違和感を持ち、表に出るべきではないしまして教会でのそれなりの位置に立つなどもっての外だとも思っているが、それは教条的な意味(食口や二世に示しがつかない)でそうなのか、別離された相対者や子供達のことを思ってそうなのか、御父母様の御心情を思ってそうなのか、あるいは御本人を思ってそう思うのか、判断するなら判断する自分を先ず判断すべきだろう。この事を耳にしたとき私が先ず感じたのは、御子女様もそうあるべきだという私達の常識は覆されたという、悲観よりは感嘆だった。祝福家庭の戒めという教条的なものを覆される覚悟であり冒険であり、それは現実と戦い荒野に一人立たれる姿として映った。不倫と言われようが奪略愛と言われようが、さらに霊界で地獄に落とされようが、それでも自分が納得する愛への渇望を捨て去ることなく形にされた。もちろんそれが正しいとは決して言えない。言えないし思わないが言いなりの原理結果愛から飛び出して、原理結果に主管されない愛への突破口を開かれたのは事実だ。その行動は私も含めて今の今受け付ける食口はほぼいないだろう。しかし十年後、五十年後、百年後、千年後、その時どう判断されるかは誰もわからない。四大淫女がメシヤ降誕に必要であったように、その受け付けない行動が遠い未来にどう役事されていくのかは現在を生きる私達の誰もわからない。御家庭の事実を並べれば公にできないような常識からはみ出ている内容のオンパレードだ。しかしだからこそ、常識を超えた御家庭に流れる本質が何かを汲み取ろうとする姿勢を私達祝福家庭は捨ててはならない。教室や社会から中傷罵倒を浴びるという外的な犠牲もさることながら、愛の犠牲がどのようなものなのか、その意味を本当に理解して御家庭をどうこう言っている食口が一人でもいるだろうか。

0 件のコメント: