2017年1月8日日曜日

混乱の中で新年を迎えて想う

多くの二世達が利口なのはよくわかる。しかし利口を全面に出して対処し行動するのは、霊的に見ればそれは小手先だけの力であって、霊的見地に立って物事に当たるのとは異なる。頭が納得しないと兎に角進めない、いつも自分の善悪基準に当てはめて批判が先に立つ、等は動機が本当に心情から発しているのかどうか自分を掘り下げて問うべきだろう。「真の父母様を信じています」「親によって祝福二世の相手と祝福を受けました」それだけで自分は祝福二世だと言えるだろうか。形だけでなく心情が伴っているだろうか。心情を相続せずに本当の意味で二世と言えるのかどうか甚だ疑問だ。一世は今度は二世達の利口さとは逆に、祝福に対する穿った観念が信仰と結びつき、祝福さえ受ければ天国に直行するものだと思い込んでいる。それはあり得ない。地獄に行かずとも、天国内という看板のついた痛みを味わう場所で多くの食口は留まるだろうと思っている。クリスチャンにとって罪を消されたかどうかは、キリストにどれだけ深く帰依するかによったように、成約聖徒にとって原罪が贖われたかどうかは、天の父母の心情にどれだけ深く繋がったかによっている。それはこの世の倫理的なものに沿っているようで実は沿っていない。孝進様がどの位置におられるかを問えば明らかだ。利口な者達が霊的見地に立つためには先ず、心情とは何なのか、心情にふれたことがあるのか、自分の中に心情が育っているのか、を問うところから始めなければならない。そうして小手先だけで自分の大部分は安全帯に留めたまま泥を被ろうとしない趣味的、あるいは道楽的歩みではなく、霊的見地に立って犠牲精神で物事に当たるようにしてほしい。一世は祝福に対する観念に支配されたままで、み旨や摂理に貢献したいという、御父母様に繋がれば当然心情動機として発せられる衝動が否定されたままでいる。要するに息子娘の形のみの祝福に思いがいって、その結果心情に繋がりにくいという迷路に嵌っている。そんな観念に支配されているから御母様の発言に対して信仰の動揺が起こってくる。今の天の願いは国家復帰であり世界復帰だ。その想いを本当に募らせた者達は御母様の言動につまずかない。逆に御母様は御父様を超えて強くあってほしいと思い、それでこそ国家復帰は為し得ると思える。私達は宗教の限界を超えなければならない。祝福という形、祝福家庭という形、祝福二世という形、など形に拘って本質を備えられない教条主義に陥るべきではない。御母様に対しても私達の御母様へのイメージから脱却しなければならない。御父様が神様から否定されながらもそれでも詰め寄って認められたように、御母様も御父様から否定されてもそれでも強く出られて認められる過程を経るのは、心情血統を相続していく者としての宿命でもある。それは堕落社会から見れば反逆に捉えられるのだろうが、本然社会からみれば発展的正分合だ。その意味においても、子供が親の言う通りに祝福を受けてくれたと喜んでいる者達がいるが、それは天の血統、すなわち心情相続が為される過程のことかどうかは別問題として意識しなければ、創造的発展とは言えないかも知れない。発展には必ずといっていいほど葛藤が伴うものだからだ。葛藤は犠牲の一面だ。そして犠牲を供えてこそ天の心情に繋がるのであり、そこで恨(ハン)という言葉が己の腑に落ちてくる。ハンがどれだけ強いかが復帰に対する執念として燃え上がるのであり、御父様は恨の塊であられたし御母様は更にその上を行っておられる。

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