2019年4月29日月曜日
カナンの地にたどり着く意味
私達は息のかかった組織や団体を離れて、まわりに食口のいない環境圏に敢えて飛び出さなければならない。そうでなければ意識的に教会の胎からいつまでも抜け出せないままだ。ひと昔であれば教会から外に出れば堕ちた離れたと信仰的敗北者の烙印を押されたわけだが、後天時代の今であれば逆に外に出ないことで教会の甘え体質にどっぷりつかり続け、新しい意識世界に産まれ出ることができない。この世であっても同じ会社に何十年もいて、さらに同じ業務にずっとついていれば時代の動きには当然疎くなる。ましてや世界観が全く異なる食口にあっては尚更だ。私達はこの世の人たちと同じ空気を吸い、同じ時間を過ごし、同じように世界や社会の動きを見てはいる。だからこの世の人たちと変わらない同じ環境圏に生きていると信じ込んでいる。同じ環境圏であることはそうかもしれない。しかし異なる環境圏を見ていることは確かだ。実際はこの世とは異なる環境圏を見ていてそこに合わせて生きている。要するに意識の在り様によって環境の捉え方も、また環境に光を当てる部分も使用する部分も異なっている。この事実に気付かないまま、意識的には教会という胎内に居座り続けるから、この世的に結果を導き出そうとしてもいつもフェイルしてしまう。この世に出てこの世に染まればいいと言っているのではない。この世と同じ世界観に生きろと言っているのでもない。今の環境圏を飛び出し、この世を俯瞰できる位置に立つべきだと言っている。もしみ言葉が正しく理解され消化されているのであれば、胎から飛び出したとしても、この世を俯瞰できる位置まで意識を高めることは当然できる。カナンの地に入ったとしても、その地の住民に感化されて染まるのであれば、それは本当の意味で神が約束されたカナンの地に入ったことにはならない。逆に彼らを感化し得る精神的息吹を起こしてこそ、霊肉共に神が約束されたカナンの地に入ったと言える。
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