2019年4月23日火曜日

mustか、それともwantか

どこのブログだったか地獄について考えたというのがあった。地獄に行きたくないらしいが地獄に対してどういうイメージを持っているのかどうもよくわからなかった。恐ろしいから行きたくないということなのだが、恐れを抱いていればその恐れ故にすでに地獄ではないですかとコメントしたのだが、誰であっても地獄には行きたくないはずだと返ってきた。要するに恐れを抱いて当然だろうということらしい。食口の理解の大方は霊界は自分の霊的基準の合うところに自分の意志で行くと思っていて、それで間違いはないはずだ。であればわざわざ恐ろしい地獄にいく意味がわからないのだが、霊界についての理解が暗く、悪いことをしたら地獄に行くという認識から抜けきれないでいる。原理を学んだことで論理的思考で判断しているはずだが、意外と原理以前の信じていたイメージにとらわれたままその信じ切っている内容から抜け切れず、原理で学んだにしてもその理解が歪(いびつ)になっている。御父様は地上を地上地獄と表現されている。それは地上がサタンの主権下にあるからそういう表現をされているのだが、しかし地上の人間が地獄だと実感したまま生きているとは思わない。人間の感覚はサタン主権であれば地獄で神主権であれば天国だとは言い切れない。サタン主権であろうが神主権であろうが居心地が悪ければ地獄だろう。ということは御父様はこの世であれあの世であれ地獄を感覚的なことについて触れた内容ではないということだ。韓国人は南北統一を悲願としているけれども、韓国が住みにくいからではなく感覚的な居心地以上に韓民族はお互いいがみ合うべきではなく一つになって支えあうべきという精神的な在り様に立っての悲願だ。それを思えば我々の統一運動、人類一家族運動に於いて地獄に行きたくないからとか条件を奪われたくないとかというのは感情に立っていて、より霊的な精神性の高みに立った動機ではないからそこに食口の低次元さを見てしまい落胆してしまう。430家庭の祝福活動に皆が精を出しているが、街角でサインをしてもらうのはまだ良しとしても、どこかの会員になれば我知らない祝福名簿を送ってもらえて加算されるとか、霊の子の名簿もいくらか加えられるとか、その数字合わせに対して疑問を抱く食口はいないのだろうかと思う。ただの数合わせなのか、それとも本当に祝福をしたという認識が自分の中にあるかどうかは良心が知っている。それを踏まえて、それでもやる意義があると良心の判断を仰ぎ意志するのであれば、それはそれで正しい道なのだろう。

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