2019年4月18日木曜日

神様をつかむ

摂理とは神様の理想に向かう霊的流れ、すなわち霊的な河だ。そしてその流れには方向性が存在しているが淀みもあれば曲折もあってその様相を時代時代に変えていくさしずめ龍としての生き物だ。私が摂理の只中にいる存在であるのはその通りでも、摂理に意志なく流されている存在なのかあるいは摂理の方向性を決める一牽引者としての存在かでは存在の在り様が異なってくる。意志する存在であれば光輝いている。人間は死ねば星になるという言い伝えがあるが恒星になるのか惑星なのか、はたまた星ともいえない宇宙の塵になるのかは人間として如何なる次元の意志を備えているかによっている。恒星存在としてその輝きを自ら発するためには、自分の歴史的使命を知り得る霊界の河から自らの光源を取り出さなければならない。意志としての光源は決して他から押し付けられて、あるいは指示されてどうこうするものではなく、他がどう思おうがあるいは生活の糧になろうがなるまいが、そのライフワークに没頭する自分を見出すことだ。み旨の歌にあるように確かにこの世の人間は時を知らずに生きている。しかし時を知っていると信じている私達が指示待ちだけの人生で意志という霊的光を放てないなら、時を知っていることが逆に恨みになるだろう。自分の使命は本当のところ何なのか、一体私はどう在りたくて何がしたいのか、結局は己の良心に問いながら見出すしかない。一生懸命神様を外に宇宙に訪ねてきたけれども、私の内なる中に神様を見出す、良心の働きとしての神様を見出した時私は神様の一意志としての私になれる。

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