2021年2月15日月曜日

今日の想い 1095

 信じているかどうかは自分の行動が信仰が原因になっているかどうかだろう。祈りでは信仰的言葉を連ねているとしても、行動が伴っていなければ実体と乖離し自分の言葉で自分を裁くことになる。食口の中にはそのことに気付かず、落とし穴から抜け出せない者が少なからずいる。御母様に賛美の美辞麗句を並べる以上に、神的存在と信じるならそういう行動、聖霊実体と信じるならそういう行動、人類の母だと信じるならそういう行動を取ることの方がはるかに大切だ。周囲がどう捉えるかが重要ではないし、更に言うなら御母様がどう思われるかさえ重要ではない。あくまで私がどう信じ、その信仰に沿う行動をしっかり取ることこそが意志の発動だといえる。真の信仰は主体的位置でこそ成り立つのであり、自分を救う者は勝手にイメージする神様でもなければ御父母様でもなく、自分以外有り得ない。家庭が大切だと信じるならそういう行動を取るべきだが、家庭をどう捉えるかという概念がはっきりしないと受け売りによるどっちつかずの行動になりかねない。二世教育の問題も実は上からの受け売りで、家庭概念が自分の中ではっきりしていないからだと私は思っている。献金が多いから食口は貧乏で当然だと思っているけれども、お金の概念もわからずにただ入ったものを意味も理解していない献金にあるだけ出しているに過ぎない。神様が天地創造で光あれと言われたように、私の中に意志という光を発行する魂が生きて働くことが後天時代を生きる私となれる。

2021年2月14日日曜日

今日の想い 1094(二世問題)

 神様を直接五感で感じ取ることはできない。しかし信仰対象とする以上神様のイメージを暫定的にでも捉えないと、曖昧なままでは進もうにも進めない。勿論食口は神様を信じているだろうが、そのイメージはまちまちで(イメージは映像だけに拘らない)、その辺から解釈の違いや方向性の違いも生じてくる。先天時代は無知ゆえに中心から与えられたイメージで一括りにできたわけだが、ある程度の成長を心霊に見るようになると、食口達も画一的個性として一括りにすることには無理が生じてくる。信仰二世問題がEテレ番組に取り上げられていたが、二世三世達にとって一世による宗教教育は押し付け以外の何物でもないだろう。親としては信じて疑わないものだから、子供にとって良かれと思うどころか、放っておけば親子共々地獄を見ると思い込んでいて結果、押し付けてでも従わせてしまう。それに対する子供の対処は大きく二つの方向性を辿る。親に沿うために個人的願望や理想を抱くことをあきらめ内にこもり意志欠如の人間になるか、自分の意志を立てとことん親に反発して距離を置く人間になるかその両極に分かれてしまう。前者は最初は親として従うふうの子供に安堵するが後に独り立ちできない魂に苦労する。人生の刈入れ時になってやっと、信仰の在り方自体に問題があるのか、子供に対する接し方に問題があるのか、とにかく何かが間違っていると認識できるようになるが、それでは遅すぎる。アメリカがこの手の問題に差ほどならないのは、個人の意志確立の素地が元々あるからだが、日本はその点、周りに合わせることが個人の意志より重要視され、不幸にして二世の問題を深刻化している。日本食口は母の国の民として摂理に貢献してきたわけだが、そこには個人意志を否定して全体意志を優先する流れが功を為しているが、後天時代、父子協助時代に果たしてその内的スタンスはどうなのだろうか。

2021年2月2日火曜日

今日の想い 1093(資本主義社会の終焉)

 共産主義社会の終焉を20世紀末に見届けた私達は、資本主義社会の崩壊を21世紀初頭に見届けることになる。DSは資本主義社会が産み出した寵児であり、資本が膨れれば膨れるほど市場の暴れ馬を統制すべき何らかの組織が生まれる必要性にかられ、次第にその権力を肥大化させてきた。資本主義社会の温存を望むなら金融という怪物を市場に放つべきではなかった。しかし欲に駆られ暴れ狂う猛者たちの腹を満たすために仕方のなかったことだ。流通する通貨が限りある資源のみを担保にする限りは膨らみ続ける市場の腹を満たせないどころか、物の流通まで滞り、分断され、経済恐慌に陥ってしまうからだ。しかし嘘偽りのMMT(いくらでも国債発行できるという論理)を掲げざるを得ないほどに、金融は天文学的数字へと巨大化してしまった。今あるお金の世界総額を分配すれば、人類一人当たり6億円とも7億円とも言われている。ゲサラ法でDSが解体され、皆に一様に平均相当のお金が配られるなどと夢物語に酔っている者もいるが、そうなった途端にハイパーインフレになって物の値段も数百倍に上がることになる。FRBを初めとする中央銀行が、金利を無理くりにでも抑えて、通貨価値維持に躍起になっているからこそ経済秩序が保たれているのであり、DSがそれをやらなければ現人神でも現れてやってくれる訳ではない。DS批難をするのは正論かも知れない。しかし粛清はしたが秩序が崩壊し、秩序立てる者もいなくて崩壊したままでは、大恐慌を遥かに超える失業、物不足は目に見えている。人類は希望の前に先ずこの危機と恐怖に打ち勝つ必要がある。確かに悪神の陰に隠れるように善神がやってくる、善悪が裏表なのは原理でも経験でもそうだが、果たして人類が自己否定ならぬ人類否定も辞さない決意を備えることができるだろうか。共産主義が謳うユートピアとは真反対の共産主義社会であったように、スピリチュアルを信じ夢見る理想郷が現実味を帯びてくるとは到底思えない。私達は良く良く知っているはずだ。諸悪の根源は外にあるのではなく、個々の心と体の闘いを解決し統一しない限り地上天国は現れないということを、、。