2021年12月18日土曜日

今日の想い 1125

 人は「楽しみ」と「喜び」を混同したままでいると霊的無知から脱却できず、よって霊的成長もない。「楽しみ」は地上世界に既に存在していて欲するものを受け取る、即ち受動的であり、「喜び」は地上世界に未だ存在しない霊界の朧を地上世界に輪郭を持たせて創造する、即ち能動的だ。性を含めた快楽そのものは受動的であり、それ自身を求めることには地上世界に没頭はしても魂を発展させる精神の向上とはならない。しかし宗教戒律によって快楽を否定したところで、それが即魂発展の精神向上ともならない。楽しみの否定が喜びではなく、創造こそが喜びだ。創造という概念も俗に何か目新しいものやシステムを作るという地上的捉え方ではなく、新たな愛の表象をいう。愛の表象は光の表象でもある。自由という概念も実に利己主義的な昔の軽いものから、責任を伴う重い自由という神が関与できる愛による自由という認識に至った背景には、新たな道徳意識という愛の表象が創造されたからだ。愛という言葉を聞いて普通にイメージできるものは実は愛ではない。ある切羽詰まった局面に追い詰められて、自分の内面の力の足り無さを克服する過程で、内面の更に奥からその力を絞り出そうとすればそれは愛だ。親を愛するというのであれば、下の世話もし認知欠落で言っても効かない親の介護でヘトヘトになりながら、それでも面倒みようとするとき親を愛するという本当の愛を創出することになる。人は困難な中でこそ霊的である光、それは地上的には愛を創造でき、創造主である神の子として立つことができる。いつも言うように地上生は難度海そのものだ。困難な中に更に追い打ちをかけるように困難の大波が押し寄せる。しかし霊界から見ればそれは人間が創造できる環境圏であり、その環境圏に立たされたことは神に任され信頼された立場だ。

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