女性性は受動的であり男性性は能動的だ。神霊を受け取ろうとし自らの中にその種を宿そうとすれば横的に構えて縦的神霊を垂直に受け取る必要がある。しかしその種を霊として立たせるためには、縦的に構えて横的世界の地上界でしっかり垂直に立つ必要がある。天に対しては受動的であり地に対しては逆に能動的であるべきだ。受け取るべき神霊がわからず、立てて育てるべき霊の種子がわからない、すなわち霊的無知故に信仰の混乱を来してしまう。内外の条件を供えて祝福を受けた立場は堕落のない霊の種を戴いた立場だ。しかし問題はその種を霊として立てて育てるということであり、能動的な位置で地上世界という畑を耕さなければならない。地上生に於ける様々な内外の環境圏を養分に、喜怒哀楽という愛の汗と涙で魂を満たしてこそ神霊の子として精神が育ち立つことができる。そういった幾らかでも霊的感性と霊的知があるなら信仰の迷路に迷い込むことはないだろう。何某かの宗教に帰依するならそれは当人にとって必要なことだろう。もちろん統一食口も何処に籍を置き誰に帰依するにしても当人にとっては必要なことだろう。しかしその環境要因に身を置くことで全てが解決する訳ではなく、ただ鍬を入れ始めただけのことだという認識は持つべきだ。どんな川や支流を選ぼうとも、人は必ず人生の流れを終えて大海である同じ霊界に籍を置く。誰が正しいかどうかの問題ではなく、批判したりレッテルを貼った対象人物も含めて一切が私の内的環境になり私の内的世界が外界になる。私という輪郭の外と内とが入れ替わる。
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