2023年2月10日金曜日

今日の想い 1225

 私達が求めた救いとは何だったのか。先ず私は何から救われたかったのだろうか。私の求めた救いは食口が一様に求めた救いと同じものだとは思わないが、それでも全体で認識していた救いが私の救いを満たしていたということ。前にも記したが、私自身は人生の不可解に相当打ちのめされていたから、信じるに値する信仰対象を得たことで八割がた私の悩みは解消していた。解消はしていたが、信仰対象を得たことで別の悩みは起こってくるわけだが、しかし魂を食まれるような悩み、絶望的な苦痛からは逃れることが出来た。新たな悩みは私の内向性からくるものだったが、それを否定したり改善したりというよりは、内向性は私自身でもあるから外向性を要求される活動に対してもっぱら耐え忍ぶこと以外考えなかった。全体目的と個体目的が相反しないのであれば、いつか自己犠牲が救いをより堅固なものにしたという認識を得られると信じて耐え忍んだ。そんな私が聖和されてからより思うのは、信仰の在り方も変わっていくし成長するということ、いや変わるべきだし成長すべきだろう。幼子のような信仰とは言われてきたが、果たして年月に反して幼きままでいいのかどうかを意識するようになった。救いの観点から単純な話をするなら、救われたいという信仰動機から救いたいという信仰動機への変化というか成長というか、を見るべきだ。成長すべきという信仰観から摂理を見直すと、後天時代の摂理観は先天のそれとは確実に異なるはずだ。御父母様の位置を誰が相続するのかという課題も、アボジが我々に対して真の父母になるようにと話されたことも併せて鑑みると、或る特定の人物や家庭をその位置に立てるべきかどうかは自ずと理解できるだろう。それは決してみ言葉の否定でもなく御父母様の否定でもない。

2023年2月4日土曜日

今日の想い 1124

 一方で全体主義があり、それに対する個人主義がある。全体主義に傾きすぎると個の否定であり、個人主義に傾きすぎると社会の否定になる。共産党一党独裁の国は全体主義国家だろうし、グローバリスト達が目論むボーダーレス社会も、何某かの権威集団独裁のグローバル全体主義世界だ。現代人は個人個人では生きられないから何らかの社会によって生かされている。よって完全な個人主義国家というのは当然あり得ないが、民主主義という或る意味の妥協主義によって世界平和を目指して来た。しかし暫定的な妥協主義であるだけにここにきて行き詰まっている。さて私達が目指すべきとされてきた共生共栄共義主義社会だが、全体の為に個を犠牲にする思想が基にあるのだから民主主義よりは全体主義的だろうと思われる。思われるとしたのはその社会について深く尋ねたことがないからだ。それは私だけではなく殆どの食口は尋ねる意志も余裕も持たなかったはずだ。私達が同じ思想を持つ私達だけで国家を形成するとして、どう共生共栄共義主義社会を目指していいのかわからない。信仰論理は理解しても、意外と私達の理想イメージは説明もできない貧弱なものだった。ただただメシヤであるアボジに従っていれば、自動的に地上天国であるそういう社会になると信じていた。目指す社会がどうであるかは置いておくとしても、アボジの指示絶対の、メシヤ権威による全体主義であるのはそうだった。

今日の想い 1223

 人間は朝に思ったことと夕に思ったことが異なり、一時間前の気がかりなこと、今の気がかりなこと、そして一時間先の気がかりなことも異なっている。そしてこの瞬時にもありとあらゆる意識や思考をとっかえひっかえ巡らしている。そんな自分を観察しながらも、それでも生命を維持する臓器や器官が一糸乱れず統一的に働き私は生かされている。その莫大な天宙的犠牲を裏切らない、天宙に寄与すべき私の使命があるはずなのに、、。生きているという認識は生きてどうするかの使命意識に担保されている。飯を食うために生きるという消費するだけの存在であれば、生きることの意味、生かされることの認識を問う権利はないはずだ。しかし瞬間瞬間にも放浪し続け様々な思いを渡り続けるだけの今の私には、その言葉がそのまま自分に返って私を裁く。天宙の中心的神様を御父母様の中に見ようとしながら、信仰条件を供えて生きてきた。確かに苦労もしてきたし涙も人一倍流した、、つもりだ。しかしその経験は神様の存在のみならず心情をも見出してきた路程だっただろうか。神様に相対できる良心が私の魂の中にどれほどの位置を占めているだろうか。天一国主人から始まる家庭盟誓を舌がもつれるほどに唱えてきたが、天宙的中心としての役目を未だ果たしていないなら唱えるどころか家庭盟誓を見るのさえ溜息が出る。一瞬たりとも留まれない私であって、しかしこの無力感だけは常に付きまとう。無力感に抗うのが精一杯で、結局さまよい続けて生きる私に妥協しごまかしている。使命観が立ちそれと一つになろうとする私と、揺れ動き彷徨い続ける私との矛盾性を未だに内包している。