2023年11月27日月曜日

今日の想い 1277

 2023年は食口にとって散々な年だったかも知れない。神の摂理に投入してきた人生を否定され、捧げてきた当然のこととして資産がないどころか年金すらない、せめての狭い世間との付き合いですら差別的空気で顔を背けられる、二世としては隔離されては生きられないので自ずと教会との関係性は隠さざるを得ないだろう。こんな状況で祝福家庭としての誇りをどう取り戻せばいいのだろうか。結局追いやられるようにしてこの国を去らざるを得ないのだろうか。イスラエル民族が放浪の民となって世界に散っていったように、統一食口もその名をあざ笑うようにそれぞれの、様々な、別々の信仰観、人生観に立つようになり内的な放浪の民となるのだろうか。しかし、それでも神は存在する。摂理は継続される。たとえ人類の相当数が地上から消え去るとしても、地上の御国は建設される。いつの日か、、。多くの一世はモーセのように、アボジのように、肉体でその日を迎えることはないのだろう。それでも私達の霊は永遠だ。永遠というより時間という縛りを超えている。私達の霊は過去にもあり未来にもあり、もちろん今にも存在している。だからその日を、その完成圏を全ての霊が共有する。私達が覚悟し、決意し、魂を投入して捧げてきた全ては霊に刻印されている。そして霊界の基に組み込まれている。だから能天気にあの世の幸せだけを夢見ながら暮らせと言っているのではない。その逆で、更に覚悟し、更に決意し、今保っている魂をさらにすり減らしてでも投入する。私達の信仰伝統は苦労の百科事典であり、息絶えるまでより苦労して戦って涙を流してこそ統一食口としての本分を果たせる。

2023年11月9日木曜日

今日の想い 1276

 教権の腐敗によって教会は堕落してしまった、と言いたい気持ちはわからないではない。しかしそう結論を出してしまうのはいささか早合点過ぎるし、組織として社会的に活動する以上アッシジのフランシスコのように清貧だけを重んじて活動するわけにはいかない。おそらく頭の中で、教権幹部達が悪代官のように笑みを浮かべて札束を懐に入れる映像が回っているのだろうが、実際は現実問題として、或いは摂理的意味や願いがあってそうなったのかも知れないという思慮に欠け、感情論でしかない。そういう者に限って自分は何の負債もないという傲慢な自覚を持っているらしいが、人それぞれ生まれた環境が異なる宿命的意味の差別は歴然として存在するし、社会が自由主義である以上当然貧富の差は存在している。一方で日に何万も餓死し、明日食べるものも事欠く者達もいるという底辺の食糧問題に対して、アボジは海洋摂理、水産摂理を立てられた訳だが、そんな摂理は忘れたか知らなかったかのように見たいところだけを見て殊更に幹部の富を羨み指弾するのは、共産主義者の連中と何ら変わりない。施しだけで世界が救われるなら遠の昔に平和は訪れている。そんなことより統一食口としての私の心配は、今の教会に、そして兄弟姉妹に本当に摂理観が立っているのかどうかという大きな問題であり、それぞれが裁いたり裁かれたりするのは霊界秩序に任せばいい。それなりの責任を預かる以上それなりの行動予算は必要なのであって、自分の測りだけで横から指さし横領だ搾取だというのは秩序も乱すだろうし、信仰姿勢からしてもおかしい。ビジネスに携わればわかることだが、資本の大きさや扱う額が大きければ大きいほど、それに合わせて給料も生活水準も高くしなければビジネスの維持はできない。商談の場にのみスーツで決めて行けばそれで事足りると思うかも知れないが、生活が異なれば話も合わないし、だいたい気も水も合わず商談どころではない。アボジがACLCのメンバー達にローレックスをプレゼントされたことがある。立派な家をプレゼントされた先輩家庭もある。使命と位置に対してそうされたのであり、それなりの内外の段階を超えれば、それなりの万物は必要とされて集まってくる。

2023年11月8日水曜日

今日の想い 1275

 東と西はどうやって一つになる? 男と女はどうやって一つになる? 夫と妻はどうやって一つになる? 心と体が一つにならなければ夫と妻は一つになれない。では心と体はどうやって一つになる? 夫婦が一つになる為に心と体の闘いを要求される。一方で心と体が一つになる為には夫婦間の闘いも要求される。一体化という言葉を普通に受け取れば、熾烈な闘いや苦悶をそこに見ることはないのかもしれない。しかし一つになる為には心と体の闘いがあるし、もちろん夫婦間のいざこざや闘いだって当然ある。要するに観念で捉えるだけでは意味はなく、一つになるという具体的行動、すなわち闘いの中に概念は隠れている。そうなると所詮人間は闘うために生まれて生きているということなのかもしれない。一方を平和にするために他方の闘いを強いられる。ウクライナ戦争もハマスイスラエル戦争も他方の平和を求めて、あるいは維持するための戦いかもしれない。私達は平和に対して、あるいは一つになるということに対して、地に足がついていない、現実を無視した観念だけでわかったつもりになっていた。今国から解散請求を突き付けられて、否が応でも現実に引きずり込まれた。突き付けられることで様々な闘いに臨まざるを得ない。しかし闘うことでこそ、御父母様の勝利圏は相続されるはずだ。食口も団体も一皮も二皮も向けて幼虫段階を超えるはずだ。大きく羽を広げて飛び立つ日も遠からず訪れる。私達の本領発揮はそれからだ。今の時を何もせずに堪えれば恩恵に与るのではなく、闘いを勝利してこそ新たな次元に超えられる。それでこそ希望的観測と言えるのであって、何もせずに棚からぼた餅が落ちるのを待っているだけの信仰なら、鰯の頭にお願いしているのと何ら変わらない。

2023年11月2日木曜日

今日の想い 1274 (聖杯伝説)

 アーサー王と12人の騎士の話は、伝説として一つではなく様々な話として語り継がれているけれども、その真意をあぶり出したのはシュタイナーだ。しごく簡単に説明すると、ミカエル大天使と繋がる一人のアーサー王という中心と、彼を取り巻く12の騎士は一つになっていた。しかし皆が一つになっている円卓上に聖杯(キリストの権威を象徴する聖なる器、最後の晩餐でイエス様が使われたとか磔刑のイエス様の血を受け取ったと言われる器)が現れて、そしてどことも知れず消え去ってしまった。一つになっていた12の騎士はその聖杯を探すべく散り散りになり、一つになっていた円卓は壊れてしまった。それからそれぞれの騎士が聖杯を求めて旅する話は続くけれども、要するに、中心とされて一つになっていたものが崩れ、新たな中心となる聖杯をそれぞれが探し求めるという伝説だ。シュタイナーはこの伝説を、キリスト精神を宗教的権威から受け取るのではなく、それぞれの内面の霊的主体から直接に受け取る時代がくると言っている。私は彼のこの霊的指摘をアボジが指示されたみ言葉にみたときに、彼を導きそしてアボジに使命と摂理観を与えた神霊は同じだと確信した。教会の宗教権威を中心として一つになっていた統一の群れは、アボジの良心宣言で宗教組織ではない家庭連合へと変革された。それはまさしく伝説の中の円卓の崩壊であり、良心革命によってそれぞれが直接に神霊を受け取る、謂わばそれぞれの内面に聖杯を受け取る過程にある。聖杯はその言葉の通り聖器であり、聖器は性器であって、良心と絶対は相通じており、良心の研鑽に絶対のあり方は必要不可欠だと思っている。「逍遥から本殿に向かって」で記したように、本体論の中心である絶対の概念を受肉しないかぎり、神霊一体圏にある良心を受け取ることはできない。