会長はメディアの前で、教会や食口に対して起こっている差別的状況を伝えられた。声を荒げたり感情を表に出されることもなく、それこそおとなしい語り調で粛々と教会や教会員への地域社会からの差別的案件を羅列しておられた。御本人が人格者だから自らを制してそうなのか、それとももはや感情を表に出せる状況を超えているからなのか、その両方なのかもわからないが、会見会場にいたメディアの面々がその報告を受けてどう思ったのだろう。誰もが大変だろうなとは感じたはずだが、メディア村で生きる限りは彼等の良心は無視されて今まで以上にあげつらう仕事に邁進するのだろう。教会は解散ならずとも既に反社の焼き印は押されてしまった。食口にとっては大患難時代の到来であり、そうなると艱難を避ける為に取るであろう大移動時代の始まりが見通せる。内的にはH1に行く者、H2に行く者、そして教会を離れる者、信仰は捨てずとも隠れ食口に生きる者、それぞれの道を選択するのだろうが重要な点は上から言われるのではなく自分で、自分の良心と相談して選択するということだ。かつてこれほどの状況変革が食口達にあっただろうか。艱難時代によって良心時代が起こり、と同時に外的には大移動時代が始まる。そしてここからが摂理観の視点に立つと見えて起こり得ることなのだが、日本の国民自体が大移動時代に突入していく。受動的であった日本食口が自らの良心に立つ新たな主体的後天時代を生きるように、日本国民は日本の国を潰しかねない政権に従う受動的立場から、早々に認識した者は国外避難するのであり、見遅れた者或いは土地を愛するか執着する者は闘わざるを得ない、すなわちどのみち主体的立場に立たされるだろう。日本国民は、自らの雛形である日本食口を艱難に追い遣ることで、将来の日本の艱難の種を蒔き、追い出して移動させることで将来の流浪の民となる種を蒔いている。しかし表面的には流浪の民となるにしても、或る意味日本の精神文化の宣教師となる神の摂理が伺える。ちょうどユダヤ民族が追われる身となってあらゆる土地に移り住み、移り住むことで彼等の精神文化を植え付けたように、、。
2024年3月30日土曜日
2024年3月8日金曜日
今日の想い 1289
いわゆるキックバックや不記載についてだが、裏金問題だと言い放つのには政治的意図があってのことで、要するに貶めたいがためにその言葉を使っている。派閥の面々もわきが甘すぎたが、引きずり落とすための質問に受け身で答えている限りは裏金議員の汚名を拭い去ることはない。同じように教会も、言われっ放しのメディアの対処にてこずっている限りは汚名返上は到底無理だ。私達が素直に従っていたその責任者達が全く闘う行動にでないこと、教会組織が全く非力であることに今更ながらに愕然とした食口は多いだろう。カインが従順に従うことに胡坐をかいてきたアベル、カインはカインでそれを当然として慣らされて家畜化されている。私達の文化に議論する闘わせるという意志行動は否定されてきたし無視されてきた。今回のようにいざ闘うべき立場に立たされて初めて、しかし闘う意志が自分の中に培われていないことに気付き闘う姿勢や行動の在り様がわからない。罪や堕落性との闘いをどれほど意識してきたかはそれぞれ違いはあろうが、神の位置に立てない、すなわち摂理に対して能動的姿勢が取れないというこの基本的な堕落性が日本の教会風土全体に蔓延していた。私達が家畜でしかないならこのまま供え物として祭壇上で朽ちるしかないが、しかし神の子女であり摂理を担う勇士烈女であるなら私達こそが祭壇を立ち上げる主になる必要がある。その意志が私達にないなら社会は主管性転倒されたままだ。後天は罪の本質が下半身から上半身、生殖器から言葉を発する口に移動している。その意味は外的生物的創造から位相を上げてより精神的な霊的創造だ。それは口から発する言葉でもって創造する。黙して語らずが金の時代ではなく、如何に社会を呼び覚まし指導できる口を持つかが社会創造の担い手であり、原理もみ言葉も知らないメディアの口車に乗せられたり言い放つままに主管されているようではみ言葉を理解して正しく信仰しているとは到底言えないだろう。
2024年3月5日火曜日
今日の想い 1288
祈りはみ言葉の羅列ではない。神様との会話という説明は成り立つとしても、神様をどう捉えているかは様々で、そうなると祈りとは即会話ではなく先ず神様をどう捉えるかの身悶えから始まって当然だろう。しかし私達の祈りに対する理解は、条件祈祷にみるように或る時間を決めての言葉の羅列に過ぎなかったりする。祈りが先ず神観をしっかり捉える為のツールであることを認めずに、祈りの形だけを繰り返すのなら、私達の信仰は洗脳だと言われても仕方がない。食口の死への態度と普通のこの世の人達の態度は確かに異なってはおり、私達の死への門は平安に満ちているのはそうかもしれないが、その平安が旅発つ先に対する希望的観測に過ぎないということはないだろうか。私達は霊界を正しく理解しているだろうか。み言葉が間違っているとかではなく、み言葉を知っただけで即霊界が捉えられるはずがないということを言いたい。私達はみ言葉の本質を本当に捉えているのかどうか、そうではなく本質からずれたままここまでの道のりを辿ってきたのかもしれない。謙虚にそういう視点を無視せず直視していく必要があると思う。初めに祈りが言葉の羅列になっていると記したが、祈りを会話と勘違いしているからここまでずれたまま来たのかも知れない。会話は横的であり水平だが、祈りは神との会話ではなく縦的であり垂直である対話だろう。そしてこの対話は横的に使う言葉を超えた、敢えて言えば言葉を言葉たらしめる本質(ロゴス)でしか対話できない。私達がしてきた、そしておそらく今もしている祈りは形骸化された中身のない空箱に過ぎない。その祈りで神に届くのならとっくに地上天国はできただろう。おそらく多くの食口は私達の祈りは神に届くはずがないと意識無意識の両領域で叫んでいるはずだ。