いわゆるキックバックや不記載についてだが、裏金問題だと言い放つのには政治的意図があってのことで、要するに貶めたいがためにその言葉を使っている。派閥の面々もわきが甘すぎたが、引きずり落とすための質問に受け身で答えている限りは裏金議員の汚名を拭い去ることはない。同じように教会も、言われっ放しのメディアの対処にてこずっている限りは汚名返上は到底無理だ。私達が素直に従っていたその責任者達が全く闘う行動にでないこと、教会組織が全く非力であることに今更ながらに愕然とした食口は多いだろう。カインが従順に従うことに胡坐をかいてきたアベル、カインはカインでそれを当然として慣らされて家畜化されている。私達の文化に議論する闘わせるという意志行動は否定されてきたし無視されてきた。今回のようにいざ闘うべき立場に立たされて初めて、しかし闘う意志が自分の中に培われていないことに気付き闘う姿勢や行動の在り様がわからない。罪や堕落性との闘いをどれほど意識してきたかはそれぞれ違いはあろうが、神の位置に立てない、すなわち摂理に対して能動的姿勢が取れないというこの基本的な堕落性が日本の教会風土全体に蔓延していた。私達が家畜でしかないならこのまま供え物として祭壇上で朽ちるしかないが、しかし神の子女であり摂理を担う勇士烈女であるなら私達こそが祭壇を立ち上げる主になる必要がある。その意志が私達にないなら社会は主管性転倒されたままだ。後天は罪の本質が下半身から上半身、生殖器から言葉を発する口に移動している。その意味は外的生物的創造から位相を上げてより精神的な霊的創造だ。それは口から発する言葉でもって創造する。黙して語らずが金の時代ではなく、如何に社会を呼び覚まし指導できる口を持つかが社会創造の担い手であり、原理もみ言葉も知らないメディアの口車に乗せられたり言い放つままに主管されているようではみ言葉を理解して正しく信仰しているとは到底言えないだろう。
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