2024年3月5日火曜日

今日の想い 1288

祈りはみ言葉の羅列ではない。神様との会話という説明は成り立つとしても、神様をどう捉えているかは様々で、そうなると祈りとは即会話ではなく先ず神様をどう捉えるかの身悶えから始まって当然だろう。しかし私達の祈りに対する理解は、条件祈祷にみるように或る時間を決めての言葉の羅列に過ぎなかったりする。祈りが先ず神観をしっかり捉える為のツールであることを認めずに、祈りの形だけを繰り返すのなら、私達の信仰は洗脳だと言われても仕方がない。食口の死への態度と普通のこの世の人達の態度は確かに異なってはおり、私達の死への門は平安に満ちているのはそうかもしれないが、その平安が旅発つ先に対する希望的観測に過ぎないということはないだろうか。私達は霊界を正しく理解しているだろうか。み言葉が間違っているとかではなく、み言葉を知っただけで即霊界が捉えられるはずがないということを言いたい。私達はみ言葉の本質を本当に捉えているのかどうか、そうではなく本質からずれたままここまでの道のりを辿ってきたのかもしれない。謙虚にそういう視点を無視せず直視していく必要があると思う。初めに祈りが言葉の羅列になっていると記したが、祈りを会話と勘違いしているからここまでずれたまま来たのかも知れない。会話は横的であり水平だが、祈りは神との会話ではなく縦的であり垂直である対話だろう。そしてこの対話は横的に使う言葉を超えた、敢えて言えば言葉を言葉たらしめる本質(ロゴス)でしか対話できない。私達がしてきた、そしておそらく今もしている祈りは形骸化された中身のない空箱に過ぎない。その祈りで神に届くのならとっくに地上天国はできただろう。おそらく多くの食口は私達の祈りは神に届くはずがないと意識無意識の両領域で叫んでいるはずだ。

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