私達は眠る時間を割いてでも祈祷してきた。祈祷によって自らを分別し、祈祷によって自らを納得させ、祈祷によって願われる要求への意志を差し出してきた。祈りが私の祈りとなる訓練を経て初めて、祈りが私を創造するツールになるのだから、祈祷の強要であったとしても無駄ではなかっただろう。時間的に相当量な無駄を要してしまったと思っても、その期間があったからこそ今の私が存在している。今日の私は昨日の私を踏み台にしており、その毎日の繰り返しの上での今の私だ。もし随分否定的で悲観的な事ばかりを述べ連ねるのかと問われたら、過去を否定し切り捨てているのではなく、過去を振り返りながら新しい私を創造していると伝えたい。大層な言い方だとしても、そういう自分でこそ生きる意味があり霊的生命を戴いた御父母様へ向き合う真摯な姿勢だと信じている。過去を振り返り、その歩みをどう判断するかは他人でもないし食口でも外的アベルでもなく自分自身だからだ。私達のそれぞれがそれぞれの霊界を背負っていると言われるように、私が住まう霊界という環境は私が創造している。み言葉であろうが何だろうが誰かに正解を求めてもそれは仮の宿でしかなく、私が未だ霊的に立っていないと言うことだ。み言葉であろうが、と述べたがみ言葉であれば尚更他の誰かに正解や意味を求めるべきではない。み言葉は霊的な言葉であるから私の正解は私の中にしかない。それが私が私の霊界を背負っていることの意味だ。食口が霊界に旅発てば楽園のような同じ空間に住まうように思っているかも知れないが、何某かの集う場があるとしても私の家はその中にはない。あれほどに祈祷に時間を割いてきたにもかかわらず、霊的無知の理解すら覚束ないのは、神霊と対話する祈祷をせずに、受け売りの神観、霊界観、信仰観、人生観という借り物、すなわち偽物を祈祷の基台にしているからだ。教会はいくつかの分派に分かれているが、一方が一方を批判するのは自分の観が正しく相手の観が間違っていると信じているからだが、しかし皆が皆の全てに共通する観など先ずあり得ない。原罪あるなしの話でつばぜり合いになるとしても、原罪という何層にも深入りする霊的事柄に対して食口に共通するとされる観で判断できるものでもないし、それどころかみ言葉のあちこちを切り取ってああだこうだと言い募るのは原理坊やの御遊びに過ぎない。
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