2007年5月27日日曜日

食口は神様の子羊

まれに頭脳明晰な兄弟もいるにはいるが、ティピカル食口は実力でこの世から劣る場合が多い。勿論自分もその一人だ。天は招待していた人が無視して現れないので、本来予定になかった者が急ぎ声をかけられた立場が我々ではある。しかし神様に対して申し訳ない思いは持つとしても、兄弟をないがしろにすべきではない。その兄弟一人を復帰するためにどれだけ神様が精誠を捧げてこられたか。自分から門を叩き自分の意思でこの道を歩むことを選択したように思えるが、実は神様が私をたずね神様が声をかけて下さったのが食口一人一人である。どれ程心を閉ざしたとしても、どれ程教会から距離を置くとしても、離れれば離れるほどにその兄弟に対する神様のいとおしい想いは益々募る。迷った子羊を主人が探す話と同じだ。神様のその想いが心に届けばこそ責任から逃れたことで平安になるどころか胸が痛む。良心の呵責は益々募る。どれ程信仰に於いて幼く、情けないほどにやる気が失せているとしても、神様が心を砕いて呼び寄せた一人一人の兄弟達だ。神様の想いがその兄弟の中にあるから尊い。共に歩む中でそのような認識を持って接してきただろうか。使い捨て同然の意識が私達の中に米粒一つでも無かっただろうか。神様父母様と同じ目線で兄弟達に接しているだろうか。今立たされている立場が兄弟の上に立つ位置であるなら、他の兄弟より優れているから立たされたのではなく、他の兄弟の良き点を引き出し立たせる為に置かれた自分だと内的に捉えるべきだと思う。今までさも同然のように無意識に対していた全ての事柄を、一つ一つその真の意味、本質を探り出す作業が必要だ。食口を見て神を見ることが出来るような、本質的な自分を備えなければ私はこの位置にふさわしくない。

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