2016年1月26日火曜日
今日の想い 904
最近見られるような、皆の前で威厳を持って話される御母様の御姿は、昔とは真逆な感じで違和感を覚えてしまうという人は何を基準に置いてそうなるのだろうか。昔の当時の御母様のイメージは御父様の後に従われる謙虚な御母様であり、御父様にお話を勧められると言葉より嗚咽が先に出てしまわれる御母様だった。そのイメージが焼き付いており、私達がそのままの謙虚にみえる御母様であって欲しいと思うのは御母様に向かう本当に正しい感情だろうか。焼き付いたイメージは、女性に対する、妻に対する、母に対する、この世的人間的イメージに過ぎないということはないだろうか。御父様が公認される勝利された御母様を一方で賛美しながら、勝利とは縁遠く思われる物静かで謙虚な御母様であって欲しいというのは実際矛盾している。その人の中に御母様に対する押し付けたイメージがあって、それからズレてしまうと反感を覚えるというのは、当人の問題であって御母様の問題ではない。御母様が強く出られることに対して違和感を覚えるのは、摂理に対して無責任であり献身的な態度を取ってはいない。なぜなら御聖和された御父様の後、摂理を責任をもって牽引していくのは御母様がおられる以上御母様以外あり得ない。独生女で揺れているけれども御母様の物言いとしてはまだ甘すぎるはずで、これから目が飛び出る程の諸々の発言が飛び出して当然だろう。御父様以上に強くもあり掻き回す側面がなくてどうして勝利された御母様と言えるだろうか。これから御父様を想像でしか見出せない者達が確実に増えていく。御指示をその口を通して受けるのではなく、自分の良心(神)を通して御父様の指示を仰ぐ。その指示は現実的指示ではなく内的霊的指示だ。母子協助時代は母と子、すなわち聖霊と子が一体となることによって父、すなわち神霊を立ててきた。父子協助時代の話を様々なみ言葉で語っておられるけれども、そのみ言葉の本当の理解を得た者は少ないだろう。母とは体だという言葉が重要であって、すなわち神霊と子が一体となることによって聖霊ではなく体を立てる、というみ言葉が父子協助時代のみ言葉だ。体とは自分の体も含めた実体世界であり、すなわち御母様が言われる環境創造だ。御母様のあるべきイメージが崩れたと嘆いているのは先天時代を未だに引き摺った人のことであり、既に時代は変わっており、教会がどうの教会責任者がどうの御母様や御家庭がどうのと言うのは後天時代、後天開闢時代に全くそぐわない。先天時代に頼っていたサナギにしがみ付きながら新しい時代に飛翔できない私達なら、御父様御父様と口にしながら御父様という私なりのイメージ、御母様に植え付けてしまったイメージに固執したままであって、御父様が開いてくださった第四次アダム心情圏へと飛翔できる私達にはなっていない。否定的感情に引き摺られ主管されるより、足の一歩でも前進させるほうがまだ後天時代に適っている。
2016年1月20日水曜日
今日の想い 903 (サンクチュアリの食口へ)
サンクチュアリ教会には、御父様が決められた後継者としての御子女様、という認識に従った食口達が集っている。教主としての御子女様の言葉は家庭連合に対して批判的であるどころか、御母様に対してすら痛烈な批難を浴びせられる。集う食口達の中には拍手喝采して扇動的意志を持つ者もいるだろうし、ご批判は避けてほしいと思う者もいるだろうし、人柄を受け入れて様子見で取り合えず参加している者もいるだろう。彼等がどう一枚岩になっていくかは主導する中心的立場の者がどれだけ献身的に支えていくことができるかによっている。御子女様に対する親しみの感情とか気分に包まれて今のところは何となく形を保ってはいるが、そんな気分は献身を要求され犠牲を要求される時点で吹っ飛んでしまう。そのとき彼に従った判断がどんなものか問われるのだが、そこまで掘り下げながら皆は集っているのかどうか、、。確かに、お話を聞けば頷けることも多々あるだろう。しかし教会の批判されて当然のあれもこれも、それなりの原因があるわけで、その原因も摂理を担当するが故の、あるいは摂理の願いに応えられなかったが故の我々に原因があることは誰も否定しないだろう。そうであれば対岸の火事のように責任者をどうこう言い、御母様をどうこう言うのは自分は摂理に対してきて負債はないという立場に立ってる。自分達だけは御父様公認の後継者に従うことで真の父母の勝利圏に立っていると思っているのだろうが、摂理の願いに応えられなかった責任感情がそこにあるのだろうか。自分は願いに応えられなかった当の本人だという自覚が少しでもあれば、こちらにつきます、あちらにつきますとカメレオンのように簡単に色を変えることはできないはずだ。問題は自分ではなく彼等であり、失敗したのは彼等が悪だからだと罵ることができるのだろうか。真の父母の勝利圏は御母様なしには立たなかったはずであり、見た目の良いきれいな事柄だけが積み上げられて摂理が進むわけでもないし、オンマアッパの仲よしこよしで御父母様の勝利圏が立ったわけでもない。ユダにどれほど大きな期待がかけられていたか、人類の代表的彼の位置を他の弟子達がよくわかっていれば彼が勝利できるよう彼を支えたはずだ。彼を裏切り者の代名詞のように思っているが、周りの取り巻きを含めて裏切った立場であり裏切ったユダの霊的負債を現代人も皆背負っている。裏切り者の血が堕落の血統の中に流れていて自分の中にもある。ユダを指差していると思っているけれども実はユダの血の流れる自分を指差している。その御子女様は御父様が後継者と決められたほどに代表的な位置に立たれていたが、はたして御父様は彼が御母様から袂を分かってでも後継者の冠を与え続けられただろうか。そのような行動に出られたことの背景に祝福家庭として御家庭を、その御子女様を支えられなかった責任は当然我々にあるが、その責任感情を覚える者であれば分かれた子女様を持ち上げて分から反に(正分ではなく正反に)わざわざ拍車をかけるようなことはしない。御父様も御母様も地上の常識的なものを超えておられる。グループ派に流れた者達は肉の親子だからそのうち許されるはずだと高を括って甘い見通しを立てていたが、そんなものが通じる御父母様ならとっくに真の父母の位置を下りておられただろう。イエス様に最も近かったユダが最も遠くなったように、御父母様に最も近い御子女様が普通の食口以上に遠く離れていくことを突き付けられる真の父母の位置は、途方も無い愛の犠牲、心情の犠牲を自らに強いられ甘受されておられる。
2016年1月18日月曜日
今日の想い 902
世界経済の様相を見ると、金融の肥大化が実体経済をますます翻弄している。ITバブルから不動産バブル、不動産バブルから株バブル、その都度肥大化させてきた金融経済はその膨らみを大きくすることはできても減らすことは出来ない。実体経済と金融経済の接するところがごく限られた範囲であったものが、今は銀行の殆んどが投資バンクとして金融に重心を置いている。よって利益幅も少なく将来的大きな飛躍も見込めない企業(、特に中小企業)への融資より、俄然金融投資に力を入れる。本来なら資本を超えた投資にはブレーキが働いて当然なのだが、リーマンショックの折、銀行という銀行の殆どが莫大な負債を抱えたにもかかわらず生き延びていて、銀行に関する限り中小企業への投資など事実上意味を為さない。潰すには大きすぎると判断した政府がその負債を埋め合わせるという禁じ手を使ったことで、バブル経済である金融経済を認証してしまい緊縮経済となった実体経済を事実上無視している。よって政府は実体経済をどうこうできる力は無い。では実体経済は何が動かしているのか。基軸通貨のドルはアメリカが段階的に行ったQE(緊急緩和)でFRB(連邦準備銀行)の各銀行口座に莫大な数値を打ち込んだ。アメリカは実体経済を無視したのであり基軸通貨であることも事実上無視したことになる。それでもドルが通じるのは、ドル以外の通貨を見出せないから惰性的にドルが横行しているだけで、絶対価値としての通貨が現れれば一変にそれに乗り換えられる。ドルを不換紙幣にした時点でドルは限りなく絶対価値から遠ざかっていくことを認めてしまった。希少金属、特にそれらを代表する金はいつの世も価値の基準であり、物質的にもっとも絶対価値に近いのは金だ。実体経済はドルから金兌換通貨へと大きく舵を切っていくはずだ。実は既にドルは金通貨に機軸を譲っており、いくらドルを持っているかではなくいくらの金に相当するドルを持っているかが価値の基準になっている。金融の肥大化もドルの金兌換を否定した結果であり、金融に翻弄される実体経済は基盤を失った、すなわち実体経済を固定させる大地を失ったということであり、ノアの箱舟ならぬ実体経済という現代の巨大箱舟はドルの大地を失い放浪を続けていたのが、金融バブルが弾けることによって金の大地の山頂に到達する。教会のビジネスは今まで様々な業種業態に手をつけ、しかし現実的には悉く痛手を被(こうむ)ってきた。御父様は一方で伝道、一方でビジネスという摂理の両輪に拍車をかけてこられたが、蕩減を埋め合わせ内的霊的勝利圏を立てられたこれからはいよいよその実を結ぶときに来ている。何某かの通貨が台頭してくるはずで、それはひょっとしたらアメリカが今のドルを見限って発行する兌換通貨としての新ドルかも知れない。何が機軸通貨としての世界通貨になるか今のところなんとも言えないが、金に価値の基準を置く兌換通貨であることは間違いないだろう。
2016年1月7日木曜日
今日の想い 901(教条主義を超えて)
我々が常識と言う場合でもやはりこの世の常識ということになるだろう。だからみ言葉を受け入れ理解しようとする統一食口が常識的な人間であろうとするのは霊的な意味では気を付けるべきだ。常識を宛がう彼等は、過去の私達の歩みには反省すべき非常識な事が少なからずあるという見地に立たざるを得なくなる。そして彼等は原理もみ言葉も既存の良心判断による常識で測ろうとするようになる。御父様の語られる良心(神)ではなく良心的に見える心をして良心とし、その良心判断による常識で測ろうとする。清平のこともそうだし教会の金の流れのこともそうだ。そして御子女様のこともそうであり御母様のこともそうだ。天に祈って尋ね、天の答えと確信を得た判断ではなく、良識とも常識ともいえるこの世的なものに耳を傾けているに過ぎない。この世的な判断、常識を無視しろというのではない。それは現実を生きている以上無視しては立ち行かなくなるのだが、だからといって重心をそこに置いてしまうと、み言葉の霊的生命を受け取る境地に入れないばかりではなく、み言葉を堕落的私の理解できる言葉に置き換えてしまうことになる。統一食口の常識的判断はみ言葉を理解できる文字に変えて汲んでしまうことで教条的なものとなり、例えば祝福を戴いた夫妻は添い遂げることは当然だと、そこには一つの例外もなく御子女様も御孫様もそうあるべきで、、という現実の話になってしまう。しかしそこに現実的な問題は少なからずある訳で、祝福を戴きながらも壊れてしまうカップルも少なからずあって、それで彼等は終わりであるならみ言葉は現実を超えられないことを是認することになる。。彼等はどんな事情がそこにあろうとも非難されるべき者達、強く言ってしまえば裁かれるべき者達だと言えるだろうか。御子女様の中にも御父様が最初に決められた夫婦が壊れたり否定した御方もいるが、一体誰が彼等を非難し終わったと判断することができるだろうか。夫婦としての形を継続している者はそれは夫婦愛を勝利したからそうなのか、最初から馬が合うからそうなのか、ある距離感を持って付かず離れずという惰性的に続いているからそうなのか、一度考えてみた方がいい。形だけの夫婦、それはこの世的夫婦と言ってもいいと思うが、御父様のいう夫婦の在り方はそんな惰性的習慣的なものではないはずだ。ある御子女様に対して、食口の多くはその行動に違和感を持ち、表に出るべきではないしまして教会でのそれなりの位置に立つなどもっての外だとも思っているが、それは教条的な意味(食口や二世に示しがつかない)でそうなのか、別離された相対者や子供達のことを思ってそうなのか、御父母様の御心情を思ってそうなのか、あるいは御本人を思ってそう思うのか、判断するなら判断する自分を先ず判断すべきだろう。この事を耳にしたとき私が先ず感じたのは、御子女様もそうあるべきだという私達の常識は覆されたという、悲観よりは感嘆だった。祝福家庭の戒めという教条的なものを覆される覚悟であり冒険であり、それは現実と戦い荒野に一人立たれる姿として映った。不倫と言われようが奪略愛と言われようが、さらに霊界で地獄に落とされようが、それでも自分が納得する愛への渇望を捨て去ることなく形にされた。もちろんそれが正しいとは決して言えない。言えないし思わないが言いなりの原理結果愛から飛び出して、原理結果に主管されない愛への突破口を開かれたのは事実だ。その行動は私も含めて今の今受け付ける食口はほぼいないだろう。しかし十年後、五十年後、百年後、千年後、その時どう判断されるかは誰もわからない。四大淫女がメシヤ降誕に必要であったように、その受け付けない行動が遠い未来にどう役事されていくのかは現在を生きる私達の誰もわからない。御家庭の事実を並べれば公にできないような常識からはみ出ている内容のオンパレードだ。しかしだからこそ、常識を超えた御家庭に流れる本質が何かを汲み取ろうとする姿勢を私達祝福家庭は捨ててはならない。教室や社会から中傷罵倒を浴びるという外的な犠牲もさることながら、愛の犠牲がどのようなものなのか、その意味を本当に理解して御家庭をどうこう言っている食口が一人でもいるだろうか。
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