2016年8月28日日曜日

今日の想い 930

想い。想いをどれだけ強くするか、、。心情を受け取るにはこの想い、天に向かう想い、父母様へ向かう想いをどれだけ強く持ち続けるかだ。想いは能動的だ。私達にはいろんな想いがある。自己への想いもあれば子供への想いもある。妻への想いもあれば周りの人への想いもある。良い想いもあれば悪い想いもある。想念という言葉が良い意味で使われることが少ないように、想いも横的な言葉のように捉われがちだが、想いを強くしなければ決して心情因縁は結ばれない。私達は信仰として摂理に関わってきたと思っているが、実は原理運動に参画したのであってその歩みは信仰路程とは異なる場合が多い。願われた外的目標を達成してもそれがそのまま信仰の結果としての心情を受け取ることにはならない。私達に願われた目標が見上げても見えないほどの高みにあるにもかかわらず、それでもそれに応えようと本当にしてきただろうか。普通の人間であればその現実感のない目標など目標だとはいわない。できると言いながらやっぱりできなかったのは「できる」という言葉に嘘があったと言われても仕方がない。しかし天の前にできませんと、諦めの言葉も言えないのは信仰生命にとってはその通りだ。私達は嘘と真実の狭間で戦ってきた。言葉に嘘があるのか真実なのか。この矛盾を内包したまま自分という人間を続ければ続けるほど人間としては破壊的になっていく。統一教会が分裂教会になるのか家庭連合になるのかはそれぞれの個人路程の表れでもあり、その成り行きを自分の信仰とは別物のように論議しても対岸の火事と変わりない。本当はどうだっていいと思ってないか。それぞれ個人に於いて矛盾を内包したまま破壊的であるにもかかわらず、形だけ一つにまとめようとしてもうまくいかないのは既にわかりきっている。今の今まで応えられなかったにもかかわらず、その同じ私をして氏族メシヤが為せると本当に思っているのだろうか、ということだ。しかし想いこそが私達の武器だ。嘘と偽りのサタンと戦う武器だ。本当は祈りとしたいところを想いとしたのは、祈りが形式化してしまい最後の結びだけ外さなければ祈りとなるという認識の偽りがあるからだ。天への想い、御父母様への想い、恋い焦がれて病むほどの想いが無ければ心情など受け取れない。

2016年8月17日水曜日

今日の想い 929

韓国食口、日本食口と括るのはどうかと思うが、それぞれの信仰観の違いは確かにある。全体摂理を進めていくと同時に個人摂理も進めていかなければならないが、全体意識の強い日本人と個人意識の強い韓国人との違いがその進め方に現れてくる。日本食口としては個人意識を否定的に捉えがちだけれども、個人意識あっての全体意識でありリーダーシップには強い個人意識が要求される。全体を引っ張る中心存在だからだ。もちろん氏族メシヤとして立つにも高い個人意識が要求される。個を犠牲にするとは個を存在亡きものにすることではなく、より全体意識を高める為に個人意識を高めることにある。個あっての全体であり全体あっての個だ。信仰は観が立たなければ信仰を持っているとはいえず、その信仰観は信仰の自由に担保され、観を立てるのは個人であってそれを否定するのは全体主義だ。日本食口の信仰は全体勝利と言いながら個の勝利を曖昧にしており信仰観として立ちにくい。全体主義的なものから観は立たないのであり、氏族メシヤとして氏族復帰を進めていこうとすれば氏族を引っ張るリーダーシップが要求され、そこに全体主義的な個人否定では立つものも立たない。氏族が見上げる何物も立たない。どんなにみ言葉が素晴らしいと思えても今の現状を見て自由の空気が溢れているとは思えないし献金の縛りのある教会に飛び込む者など誰もいない。今の日本食口の献金が信仰の自由による信仰観に立ったものでなければ、それが精誠だといえるかどうかは甚だ疑問だ。責任者が献金の相当の部分を懐に入れたと追及しようにも、信仰観に立たない献金が、つまり霊的実質の薄い献金という名の浮いたお金が正しく使われるとは思えない。宝くじで当たったお金が直ぐにも消えてなくなるのと同じように、摂理だといって注ぎ込んだ献金の大半が藻屑となり消えていった。私達は霊界を信じており霊的実質をあらゆる物事や事物に見なければならないにもかかわらず、お金を得るのも使うのも唯物主義者と何ら変わらない意識で対している。そんな基準で、お金にすらそうであるのにどうして真の愛の価値を理解できるだろうか。

2016年8月2日火曜日

今日の想い 928

この感覚の世界は、堕落以降に中間位置に立つ人類を主体とする表象的対象として現れている。中間位置に立っているから感覚を通して世界は神に相対する部分も持っているしサタンに相対する部分も持っている。感覚を通して、と言うのが人間がこの現実世界に対して主体的位置に立つことを意味している。私が変わり、感覚からくる刺激への態度が変われば世界は変わってくる。祝福を受けて重生した私(生まれ変わった私)であっても感覚から受け取るこの世界は何ら変わりのない世界だと思えるのは、五感から受け取る情報の取り方が相変わらず中間位置に立った堕落的方法に拠っているからだ。認識している情報全てに堕落的フィルターがかけられて届いていると思って先ず間違いない。私達は原理を確かに理解している。しかしその理解は私達の間では大して違いはなくても御父様の理解には及ばないし、その意味では真の理解から程遠いと思ったほうがいい。真の理解に及ばない理解を正しい測定器としてこの世に宛がえ御父母様に宛がうのは正しくない。入教したての原理を学んだ頃の理解からすれば今の理解が随分変わってきたように、未だ真の理解への道途上にある私だという認識を持たなければ、現状理解に同調し知の誘惑を仕掛けてくる霊に主管されてしまうだろう。霊界は感覚を超えた世界であり、心情世界こそが霊界だ。現実世界という五感で認識する感覚世界に身を置き、感覚を通して心情を培うのでなければ死は死のままであり心情世界である霊界に旅立つ昇華にはならない。御父様は統一教会は苦労の百科事典だと言われたが苦労を取り違えてはならない。犠牲を供えたならそれと引き換えに心情を手にしてこそ御父様が言う意味での苦労のはずだ。感情が心情に昇華しての苦労だ。あらゆる感情を味わいながら心情を培っていく。喜怒哀楽の感情を味わいながら霊人体に刻めるエキスとしての心情を受け取る、と言うことにどれほど専念しているだろうか。それよりか感情世界に専念しているだろうし生活が中心だ。どれほど高潔なみ言葉を知っていると自負しても、この世界の殆どの者達がそうであるように、感情に専念し生活が中心であるならみ言葉の外殻のみを知っているのであってみ言葉の本質は受け取れない。