2016年8月17日水曜日

今日の想い 929

韓国食口、日本食口と括るのはどうかと思うが、それぞれの信仰観の違いは確かにある。全体摂理を進めていくと同時に個人摂理も進めていかなければならないが、全体意識の強い日本人と個人意識の強い韓国人との違いがその進め方に現れてくる。日本食口としては個人意識を否定的に捉えがちだけれども、個人意識あっての全体意識でありリーダーシップには強い個人意識が要求される。全体を引っ張る中心存在だからだ。もちろん氏族メシヤとして立つにも高い個人意識が要求される。個を犠牲にするとは個を存在亡きものにすることではなく、より全体意識を高める為に個人意識を高めることにある。個あっての全体であり全体あっての個だ。信仰は観が立たなければ信仰を持っているとはいえず、その信仰観は信仰の自由に担保され、観を立てるのは個人であってそれを否定するのは全体主義だ。日本食口の信仰は全体勝利と言いながら個の勝利を曖昧にしており信仰観として立ちにくい。全体主義的なものから観は立たないのであり、氏族メシヤとして氏族復帰を進めていこうとすれば氏族を引っ張るリーダーシップが要求され、そこに全体主義的な個人否定では立つものも立たない。氏族が見上げる何物も立たない。どんなにみ言葉が素晴らしいと思えても今の現状を見て自由の空気が溢れているとは思えないし献金の縛りのある教会に飛び込む者など誰もいない。今の日本食口の献金が信仰の自由による信仰観に立ったものでなければ、それが精誠だといえるかどうかは甚だ疑問だ。責任者が献金の相当の部分を懐に入れたと追及しようにも、信仰観に立たない献金が、つまり霊的実質の薄い献金という名の浮いたお金が正しく使われるとは思えない。宝くじで当たったお金が直ぐにも消えてなくなるのと同じように、摂理だといって注ぎ込んだ献金の大半が藻屑となり消えていった。私達は霊界を信じており霊的実質をあらゆる物事や事物に見なければならないにもかかわらず、お金を得るのも使うのも唯物主義者と何ら変わらない意識で対している。そんな基準で、お金にすらそうであるのにどうして真の愛の価値を理解できるだろうか。

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