2016年8月2日火曜日

今日の想い 928

この感覚の世界は、堕落以降に中間位置に立つ人類を主体とする表象的対象として現れている。中間位置に立っているから感覚を通して世界は神に相対する部分も持っているしサタンに相対する部分も持っている。感覚を通して、と言うのが人間がこの現実世界に対して主体的位置に立つことを意味している。私が変わり、感覚からくる刺激への態度が変われば世界は変わってくる。祝福を受けて重生した私(生まれ変わった私)であっても感覚から受け取るこの世界は何ら変わりのない世界だと思えるのは、五感から受け取る情報の取り方が相変わらず中間位置に立った堕落的方法に拠っているからだ。認識している情報全てに堕落的フィルターがかけられて届いていると思って先ず間違いない。私達は原理を確かに理解している。しかしその理解は私達の間では大して違いはなくても御父様の理解には及ばないし、その意味では真の理解から程遠いと思ったほうがいい。真の理解に及ばない理解を正しい測定器としてこの世に宛がえ御父母様に宛がうのは正しくない。入教したての原理を学んだ頃の理解からすれば今の理解が随分変わってきたように、未だ真の理解への道途上にある私だという認識を持たなければ、現状理解に同調し知の誘惑を仕掛けてくる霊に主管されてしまうだろう。霊界は感覚を超えた世界であり、心情世界こそが霊界だ。現実世界という五感で認識する感覚世界に身を置き、感覚を通して心情を培うのでなければ死は死のままであり心情世界である霊界に旅立つ昇華にはならない。御父様は統一教会は苦労の百科事典だと言われたが苦労を取り違えてはならない。犠牲を供えたならそれと引き換えに心情を手にしてこそ御父様が言う意味での苦労のはずだ。感情が心情に昇華しての苦労だ。あらゆる感情を味わいながら心情を培っていく。喜怒哀楽の感情を味わいながら霊人体に刻めるエキスとしての心情を受け取る、と言うことにどれほど専念しているだろうか。それよりか感情世界に専念しているだろうし生活が中心だ。どれほど高潔なみ言葉を知っていると自負しても、この世界の殆どの者達がそうであるように、感情に専念し生活が中心であるならみ言葉の外殻のみを知っているのであってみ言葉の本質は受け取れない。

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