2016年9月24日土曜日

今日の想い 933

愛は暖かい側面があると思っていたけれどもどこまでも冷たい愛もあるのだろうか。イエス様はユダヤ人にとっては冷たい愛だったのだろうか。イエス様の愛が彼らにとって暖かい愛、優しい愛であったらイエス様を十字架につけはしなかっただろうか。それとも当時のユダヤ人はそんな愛は信じなくて、愛よりは原理を重んじたのだろうか。愛が暖かろうが冷たかろうがどうでもよくて、原理原則にのみ身を捧げたから十字架につけてしまったのだろうか。では統一食口はどう?私達が受け取った愛はけっして暖かく優しいだけではなかったはずだ。冷たい厳しい愛だった。それを当然と思えばこそ離れなかった。とにかく愛と信じてついてきた。愛の厳しく冷たい表情としての蕩減原則であり、蕩減原則からくる実績追及に身も心も捧げて応えようとし、周りの食口にも当然冷たく厳しい存在にならざるを得ない。思い描く愛の世界とは程遠い統一社会、そこに居続けた結果が私であり貴方であり責任者達であり、そして離れ行く二世達だ。一世達は未だに蕩減が終わっていないと厳しい追及に心身を委ねるのだろうか。あるいは為に生きることの実感がそこにあるからそうなのだろうか。では蕩減は何をして払われたと認識し、為に生きることは誰の何の為であり相手の喜びや感謝をどこに見ようとするのだろうか。私達は環境や境遇の全てをわかったつもりで歩んでいるし、一方で何もわからないまま歩んでいる。教会は統一を標榜しながらも一方で分裂の様相を示している。かつて日本人は、語られる言葉に陛下という文字が加えられれば瞬時に背筋を伸ばしその精神に貫かれたように、統一食口は御父様、御父母様という言葉に接すると畏敬の精神に貫かれていたはずだ。御母様という言葉に対して同じ精神が宿り、従うそれぞれの御子女様という言葉に対して同じ精神が果たして宿っているだろうか。誰に付こうとも、誰もが御父様の亡霊を引きずりながら立ち止まったままでいる。そうして受け取れなかった暖かくも優しい愛を求めている。だから「為に行きる」という言葉が言葉のまま空回りする。摂理の為に身をすり減らして歩んできたにも拘らず、受け取るはずの恩恵が確認できない。為に生きていたつもりが上からも下からも周りからの理解も感謝も得られず辟易している。慕ってきた御父様がおられない今は尚更だ。誰もが真の愛の着地を自分の中に見いだせずにいる。御父様は実体み言葉であられたけれども、御母様は聖霊実体であられる。私達は御母様の権威が証明されそれを見たいのではなく聖霊実体としての御母様を見たい。御母様が独生女であられようが復帰されたエバであられようが、そんなことは私の信仰に何の影響も及ぼさない。そんなことより聖霊実体としての御母様を見たいのであり、それなくして私は一歩も前進できない。私の中での御母様という言葉には聖霊に対する精神がまだ生きている。しかしそれがいつまで生き続けるだろうという思いが広がりつつある。私は聖霊実体としての真の母を失いたくない。暖かくも優しい御母様の愛を失いたくないし、私の中のそういう御母様を否定されたくもない。

2016年9月16日金曜日

今日の想い 932 (化合と成和)

御父様は統一するにあたって化合と成和という言葉の違いを説明しておられる。と言うのは私達が、やもすれば統一、一つになるということが化合して一つになることとして捉えがちだからだ。化合とはそれまでの存在を否定されて真理体としての個性がなくなってしまうことを意味する。一方で成和は個性真理体として各々が異なる存在でありながら、異なるものが天の願いを中心として一つになることを意味する。さて、私達が目指す統一は成和だろうか、それとも化合を統一だとして認識を間違えているのだろうか。一人一人は個性真理体として異なって当たり前であるのに、その個性を否定して化合するのは全体主義であって、それを一つになることと勘違いしている場合が多いのではないだろうか。その勘違いによって偽りの統一村社会、そして村八分が跋扈し始めた、と私は思っている。しかし付け加える重要な事として、個性は否定してはならないが堕落性は否定しなければならないという問題だ。そして個性なのか堕落性なのかは誰の、何の判断によるのかという問題だ。原理は原理結果主管圏という言葉にあるように結果世界の基になっているが、結果である現実に沿うばかりが個性ではなく、現実を超えて将来的創造を為そうとする働きが個性に宿っているとすれば、原理とする今の認識する原理を超えた原理がその個性に働いているということになる。そういった個性の働きを原理主義者に限って堕落性だと批判し個性の芽を摘む場合が往々にしてあることを指摘したい。耳に良い全体理想を口にしながら実のところ自己の欲望が動機になっていたり、あるいは逆に好き放題口にしながらも本当は全体を憂いていたりといった政治家の本性を見据えるように、個性という本生なのか堕落性なのかを他に向けて判断することは難しいとしても、こと自分に関してはわかるし嘘をつけない。私達は化合ではなく成和を通してしか統一は為せないからこそ、様々な宗教を受け入れ、受け入れた上で一つになろうとしてきた。御母様派もグループ派もサンクチュアリ派も、み言葉解釈を論点として分裂したかのように捉えているが、実は愛されていない、向かう愛を否定された、という統一家の愛の問題、真の家庭の愛の問題であり、それが解かれることで天宙次元の意識へと人類はアセンション(昇華)する。真の家庭が血族という形で一つではあったが、真の愛を中心として一つになるかどうかの正分合の動向を今見ている。しかしどういう経路を辿ろうとも真の愛を中心として一つにならざるを得ない。食口達も解釈を超えて一つにならざるを得ない。正義であっても真の愛がその拳を溶かしてしまうからだ。正義をかざすのは化合されるには功を果たすが成和となると正義一辺倒では難しい。実は御母様も御子女様も根底に於いてはわかっておられたけれども、分裂したかのような経路を辿らざるを得なかったと思えるし、またそれによって更に強固な、真の愛を中心とする一体化が為されるはずだ。そうでなければ真の愛は絵空事だ。化合による機械的統一であり教祖を立てる全体主義だ。

2016年9月12日月曜日

今日の想い 931

私達は世界が私達を必要としていると信じている。私達は人々が真の父母に繋がる私達を必要としているはずだと思い込んでいる。世界が私達を必要としているかどうかは別として、明らかに人々からすれば、目の前の人からすれば私は必要とされてはいない。それどころか人々からすれば私達の歩みは独善的で自己満足としか映っていない。人々は神様が存在するしないよりも私達が信じる神様を必要としていない場合が多い。人々は死後の世界が存在するしないよりも今生で生きるに於いて死後の世界を必要としていない。人々が覚醒して霊的に目を覚まさない限り私達は彼らにとっては無用な存在だ。この現実を踏まえるなら現世での私達は孤独な存在だともいえる。ひたすら教条的(とって食べるなとか公私の分別だとかの信仰的規約)に生き、この自らに枷だけを嵌めて生きることに汲々とし、この世に何らの影響も与えられず年だけは重ねていく。私達を必要としている人というのは謂わば魂に於いて問題を抱えている人達だ。魂の弱者と言っていいだろう。人は肉体の存在でもあり魂の存在でもありそして霊の存在でもある。体の癒しや救いを求める者や魂の癒しや救いを求める者はいても霊の救いを求める者は少ない。殆どの者は霊の存在だという自覚すらない。私達は霊の救いを預かっている者達だ。しかしその私達ですら霊の認識が曖昧で、肉体とは別の体、霊人体が存在するくらいの認識でしかない。あるいは霊界があって霊界を生きる体という認識でしかない。肉体の救い、魂の救いを求めている人に救いを与えられないという実情がある。原因である霊の救いを得て初めて結果としての魂の救いがあり、その魂に応じて肉体の救いが開かれる、というのが論理的に思い起こされることだが、霊は現状の魂の否定、魂は現状の肉体の否定によって復帰される。それが自己否定であったし献身生活でもあった。救いを得るために先ずは否定せざるを得ないという、魂を否定しなければ新たな霊を得てそれによる魂を得られないというこの逆説的とも取れる役事を受け入れられるかどうかだ。そんな痛みを受け入れるはずもなく当然聞く耳は持たないのであって、食口ですら信仰と勘違いしている自分の宗教的感情を否定しようとはしない。私達は新たな自己否定の段階に来ている。それは今まで信仰としてきた自分の宗教的感情の否定だ。御母様についていく者達の中に二通りある。一つは今までの宗教的感情を引きずる者、今一つは今までの宗教的感情を否定して心情に立つ新たな自分を立てる者だ。グループ派もサンクチュアリ派もそれぞれに今までの宗教的感情を引きずっていてその意味ではどちらに付こうと大差ない。御母様の独生女発言をどう捉えるか、堕落世界から復帰された御母様だったという認識だったが実は御母様は生まれながらに罪なき存在であられたという言葉を何とか受け入れようと、それを受け入れなければ御母様に従えないと思えるのは実は今までの宗教的感情を引きずっている。発言の論理性を問うのは後々に譲るとして、兎に角新しい私、今までの宗教的感情を否定したより心情に立つ私を立てようと意志すれば御母様の願いに合わせてと思うのは当然のように思う。グループ派、サンクチュアリ派では実は宗教的自由はない。しかし私達には枷とも思えなかった枷を外し、天の願いを全うする為の翼を得て羽ばたける自由がある。自由があるとは本当の意味での責任感情がそこにあるということでもある。氏族を復帰しようと思えば、世界復帰を私を中心にと思えば、グループ派でもなくサンクチュアリ派でもなく、ましてや御母様派でもなく(敢えてそのように言明します)、御父母様派であるべきでそれは氏族メシヤ派であり第四アダム心情圏派でもあると信じる。そこに立たなければ世界が必要とする私達にはなれないのであり、人々が必要とする私達にはなれない。今まではある意味訓練期間であったし御父様の保護圏にあった。しかしこれからの時代父母として立つ私の時代であり、氏族を救う父母として責任を取らなければならない時代に来ている。