2016年9月16日金曜日

今日の想い 932 (化合と成和)

御父様は統一するにあたって化合と成和という言葉の違いを説明しておられる。と言うのは私達が、やもすれば統一、一つになるということが化合して一つになることとして捉えがちだからだ。化合とはそれまでの存在を否定されて真理体としての個性がなくなってしまうことを意味する。一方で成和は個性真理体として各々が異なる存在でありながら、異なるものが天の願いを中心として一つになることを意味する。さて、私達が目指す統一は成和だろうか、それとも化合を統一だとして認識を間違えているのだろうか。一人一人は個性真理体として異なって当たり前であるのに、その個性を否定して化合するのは全体主義であって、それを一つになることと勘違いしている場合が多いのではないだろうか。その勘違いによって偽りの統一村社会、そして村八分が跋扈し始めた、と私は思っている。しかし付け加える重要な事として、個性は否定してはならないが堕落性は否定しなければならないという問題だ。そして個性なのか堕落性なのかは誰の、何の判断によるのかという問題だ。原理は原理結果主管圏という言葉にあるように結果世界の基になっているが、結果である現実に沿うばかりが個性ではなく、現実を超えて将来的創造を為そうとする働きが個性に宿っているとすれば、原理とする今の認識する原理を超えた原理がその個性に働いているということになる。そういった個性の働きを原理主義者に限って堕落性だと批判し個性の芽を摘む場合が往々にしてあることを指摘したい。耳に良い全体理想を口にしながら実のところ自己の欲望が動機になっていたり、あるいは逆に好き放題口にしながらも本当は全体を憂いていたりといった政治家の本性を見据えるように、個性という本生なのか堕落性なのかを他に向けて判断することは難しいとしても、こと自分に関してはわかるし嘘をつけない。私達は化合ではなく成和を通してしか統一は為せないからこそ、様々な宗教を受け入れ、受け入れた上で一つになろうとしてきた。御母様派もグループ派もサンクチュアリ派も、み言葉解釈を論点として分裂したかのように捉えているが、実は愛されていない、向かう愛を否定された、という統一家の愛の問題、真の家庭の愛の問題であり、それが解かれることで天宙次元の意識へと人類はアセンション(昇華)する。真の家庭が血族という形で一つではあったが、真の愛を中心として一つになるかどうかの正分合の動向を今見ている。しかしどういう経路を辿ろうとも真の愛を中心として一つにならざるを得ない。食口達も解釈を超えて一つにならざるを得ない。正義であっても真の愛がその拳を溶かしてしまうからだ。正義をかざすのは化合されるには功を果たすが成和となると正義一辺倒では難しい。実は御母様も御子女様も根底に於いてはわかっておられたけれども、分裂したかのような経路を辿らざるを得なかったと思えるし、またそれによって更に強固な、真の愛を中心とする一体化が為されるはずだ。そうでなければ真の愛は絵空事だ。化合による機械的統一であり教祖を立てる全体主義だ。

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