2016年9月12日月曜日

今日の想い 931

私達は世界が私達を必要としていると信じている。私達は人々が真の父母に繋がる私達を必要としているはずだと思い込んでいる。世界が私達を必要としているかどうかは別として、明らかに人々からすれば、目の前の人からすれば私は必要とされてはいない。それどころか人々からすれば私達の歩みは独善的で自己満足としか映っていない。人々は神様が存在するしないよりも私達が信じる神様を必要としていない場合が多い。人々は死後の世界が存在するしないよりも今生で生きるに於いて死後の世界を必要としていない。人々が覚醒して霊的に目を覚まさない限り私達は彼らにとっては無用な存在だ。この現実を踏まえるなら現世での私達は孤独な存在だともいえる。ひたすら教条的(とって食べるなとか公私の分別だとかの信仰的規約)に生き、この自らに枷だけを嵌めて生きることに汲々とし、この世に何らの影響も与えられず年だけは重ねていく。私達を必要としている人というのは謂わば魂に於いて問題を抱えている人達だ。魂の弱者と言っていいだろう。人は肉体の存在でもあり魂の存在でもありそして霊の存在でもある。体の癒しや救いを求める者や魂の癒しや救いを求める者はいても霊の救いを求める者は少ない。殆どの者は霊の存在だという自覚すらない。私達は霊の救いを預かっている者達だ。しかしその私達ですら霊の認識が曖昧で、肉体とは別の体、霊人体が存在するくらいの認識でしかない。あるいは霊界があって霊界を生きる体という認識でしかない。肉体の救い、魂の救いを求めている人に救いを与えられないという実情がある。原因である霊の救いを得て初めて結果としての魂の救いがあり、その魂に応じて肉体の救いが開かれる、というのが論理的に思い起こされることだが、霊は現状の魂の否定、魂は現状の肉体の否定によって復帰される。それが自己否定であったし献身生活でもあった。救いを得るために先ずは否定せざるを得ないという、魂を否定しなければ新たな霊を得てそれによる魂を得られないというこの逆説的とも取れる役事を受け入れられるかどうかだ。そんな痛みを受け入れるはずもなく当然聞く耳は持たないのであって、食口ですら信仰と勘違いしている自分の宗教的感情を否定しようとはしない。私達は新たな自己否定の段階に来ている。それは今まで信仰としてきた自分の宗教的感情の否定だ。御母様についていく者達の中に二通りある。一つは今までの宗教的感情を引きずる者、今一つは今までの宗教的感情を否定して心情に立つ新たな自分を立てる者だ。グループ派もサンクチュアリ派もそれぞれに今までの宗教的感情を引きずっていてその意味ではどちらに付こうと大差ない。御母様の独生女発言をどう捉えるか、堕落世界から復帰された御母様だったという認識だったが実は御母様は生まれながらに罪なき存在であられたという言葉を何とか受け入れようと、それを受け入れなければ御母様に従えないと思えるのは実は今までの宗教的感情を引きずっている。発言の論理性を問うのは後々に譲るとして、兎に角新しい私、今までの宗教的感情を否定したより心情に立つ私を立てようと意志すれば御母様の願いに合わせてと思うのは当然のように思う。グループ派、サンクチュアリ派では実は宗教的自由はない。しかし私達には枷とも思えなかった枷を外し、天の願いを全うする為の翼を得て羽ばたける自由がある。自由があるとは本当の意味での責任感情がそこにあるということでもある。氏族を復帰しようと思えば、世界復帰を私を中心にと思えば、グループ派でもなくサンクチュアリ派でもなく、ましてや御母様派でもなく(敢えてそのように言明します)、御父母様派であるべきでそれは氏族メシヤ派であり第四アダム心情圏派でもあると信じる。そこに立たなければ世界が必要とする私達にはなれないのであり、人々が必要とする私達にはなれない。今まではある意味訓練期間であったし御父様の保護圏にあった。しかしこれからの時代父母として立つ私の時代であり、氏族を救う父母として責任を取らなければならない時代に来ている。

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