2017年12月13日水曜日

今日の想い 961

私達は神様をどのようにイメージしているのだろうか。私自身はどうだろうか。そしてそれは神様御自身のイメージとして正しいものだろうか。しかし本来神様の全体像をイメージで捉えることなどできるものだろうか。もちろん神様のイメージが視覚的であったり感覚的であったりするのは一面的だ、ということは理解できるが、私達が捉えている愛の神様、親なる神様というのも感覚を超えたイメージであって全体像とはいえない。神体験、というけれどもイメージしている愛の神様、親なる神様に触れたときを指しているのだろうし、子を奪われた親としての悲しみや孤独に触れたときもそうかも知れないが、どちらかというと力弱き神様、力弱い者達に寄り添う神様というイメージは私達の神観として付いてまわる。だから御母様が権威を持ち出した時に違和感を覚えるのだろうし、御母様と言いながらも寄り添ってくれる神様を求めている。しかし世界復帰は強力なる神様でこそ為せるだろうし、摂理の一角を担っていると自負するなら子として相続した権威を持ち出さなければ一歩も進まない。御父様が身内の兄弟を殴ってでも祝福を受けさせろと言っておられたのは冗談ではなく権威を本気で持ち出せという事だとも思えるがどうなんだろうか。権威主義をひけらかすのはどうかとは思うが、権威がなければいつも良い話をするオジサンでやり過ごされてしまって摂理は進まない。ジューイッシュにはユダヤの神様がいてクリスチャンにはキリスト教の神様がおられ、イスラム教徒にはアラーの神様がおられる。おられるという意味は信奉しているという意味だが、それぞれのイメージがあり、それぞれの特徴がある。結局は一なる神様であり私達が信じる神様と同じだというのは正しいのかも知れないが、同じならイメージも同じかというと実は大きく異なっている。少なくとも権威ある神様となるとユダヤの神エホバ神を信奉しているジューイッシュは権威、力の神であって、それ故にどこか傲慢な態度であったり物言いがそんな風で周囲からは嫌われがちだ。しかし彼等は事実力を持っている、というより権威の神を見ようとし体現しようとしている。先天時代の総括は御父様が再臨主、キリスト使命の完成を為された上で、新たな後天時代の出発、新しい時代霊の産出が為され、人類目標がその時代霊によって与えられるということだ。大宇宙の視点に立てばアダムとエバは新しい時代霊の出発だった。人類という実体を持つ時代の時代霊の出発だった。そして後天時代の出発は祝福家庭という実体を持つ新たな時代霊の出発だ。私達は真の父母様を新しくも真なるアダムエバとし、究極的存在を天の父母様と呼ぶ新生人類だ。全ての環境はこの新生人類の為に存在し、そして新生人類が主管していく。しかし忘れてはならないのは新生人類は公益人間の集まりであって、為に生きることを主義とし自己中心に走ることはない。私達祝福家庭を通して天の父母様はその権威を現し愛を現していかれる。私達のイメージで雁字搦めになっている神観が御母様を受け入れられないのであり、この世を主管し新たな世を創り出すほどの権威と力を相続できていない。すなわち後天時代の力を母体から得る霊的へその緒が絡まるか詰まっていて霊力を受け取れないでいる。さらに言えば胎児は頭を下にしているのであり、後天時代の出発は論理という頭が先導するのではなく生殖器が思考し生殖器周りの丹田が先導する。偽りの良心の声は頭から発せられたが良心革命されることで真の良心(神)の声は丹田から発せられる。

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